敦成親王の生誕50日を祝う藤原道長(下中央の男性)。敦成親王を抱くのが道長の妻・倫子、向かい合って座るのが彰子、右下隅に見えるのが紫式部とされる/東京国立博物館/ColBase
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 NHK大河ドラマ「光る君へ」では、藤原道長の娘・彰子が一条天皇の中宮となり、まひろ(紫式部)は彰子の女房として、藤壺で「源氏物語」を書き始めた。9月8日放送の第34話の予告によれば、「源氏物語」は宮中の話題をさらう一方で、この物語をきっかけに一条天皇と彰子の仲を深め、彰子の懐妊を――と願う道長の目論見通りには事が進まないようだ。

 この藤原彰子、現段階では不自由な暮らしを強いられる奥ゆかしい女性として描かれているが、実際は、道長の権勢を支えて一族に栄華をもたらし、後に二人の天皇の母となって「大女院」とも称された人物だ。

 彰子に始まる道長の婚姻政策について、『出来事と文化が同時にわかる 平安時代』(監修 伊藤賀一/編集 かみゆ歴史編集部)はこんなふうに解説している。

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 道長の権勢を支える大きな力となったのが婚姻政策である。一条天皇の中宮となった長女・彰子は、敦成親王・敦良親王という皇子を生み、後年、二人が後一条天皇・後朱雀天皇として即位し、摂関家にかつてない栄華をもたらすこととなる。

 一条天皇に代わって即位した三条天皇の中宮も、道長の娘・姸子であった。しかし、三条天皇は道長を敵視し、たびたび対立した。そこで道長は、三条天皇の病につけこんで退位を迫り、孫の後一条天皇を即位させて摂政に就任。皇太子には敦良が立てられ、道長は天皇と皇太子の外祖父となった。

 政治力のある彰子は、幼い後一条天皇の母后として天皇大権を代行し、道長は実質的な摂関として重要事項を決定し、後一条天皇と道長の長男・頼通の政権をも支えた。

 1018(寛仁2)年には、三女・威子が後一条天皇の中宮に、次女・姸子が皇太后となり、太皇太后となっていた彰子とあわせて、未曽有の一家三后を実現し、道長の栄華は頂点に達した。道長が有名な「望月の歌」を詠んだのはこの時である。

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前代未聞の「一帝二后」