谷川直子さん
谷川直子さん

「ちる花や已(すで)におのれも下り坂」など、年を取ることのもの悲しさにちょっと笑ってしみじみしてしまう、そんな句の数々に心が動かされる。一茶の句は、役立たずになっていく老人への自虐的な視線が容赦なく鋭くて、それでも生きていく人間の強さ、ほほえましさに対する愛が底に流れていて温かく、自分も含めて人間というものを風景としては見ていないことが感じられます。

 それらの句には、俳句が趣味で人間が好きだった父の思いが重なるようで、一茶を物語に取り込むことで、あの世とこの世をいったりきたりしている父の世界を表現できるのではないか、とワクワクしたのでした。そして各章の冒頭に、一茶の句を含む父の独白を組み込んだのです。

 延命措置はせず、自宅で看取りたいという母の希望通り、点滴を外してから10日ほどで父は静かに息を引き取りました。老衰による大往生です。義父の介護を通じ、点滴だけで長期間生かされ病院のベッドに横たわっている孤独な老人たちを多く見てきた私は、自然に死ぬことがこれほど「あっさり」したものだとは思いもしませんでした。けれどそれは、1人の人間が家族みんなに見守られて住み慣れた家で寿命をまっとうするという、いわば奇跡の物語のような体験でした。奇跡のようですが、実現は可能なのです。

 人が死ぬとき、本人だけでなく周りの人間も自分をさらけ出さずにはいかなくなります。義父を看取ったときは嫁という立場でしたが、今作のモデルとなった父の死は、実の娘として受け止めなければならず、それなのに、いやそれだからか、私は最後の20日間、それを現実ではなく、なんとなく父の死の予行演習をしているような不思議な気持ちで過ごしました。

「いざさらば死(しに)げいこせん花の陰」

 一茶のこの句が、この小説のキーだと思います。何度も危篤を繰り返し、徐々に死に近づいていく高齢老人の姿は、超高齢社会ではどこにでもあるあたりまえのケースでしょう。本人も周りの人間もそうやって「死げいこ」を積んでいく。そのあいだに周囲の人間は死にゆく人の来た道をまたたどって自分の生き方と照らし合わせたりする。死ぬ姿を見せることで、人はべつの人に何か特別なものを渡しているのかもしれません。

 介護はやり始めるときりがなく、手を抜こうと思えばいくらでも手を抜ける仕事です。そこには人間のありようがくっきりと立ち現れます。今日もどこかで、恭輔のような死にゆく老人を前に、志麻や洋子や素子のような家族たちが振り回されがんばっていることでしょう。その誰かが疲れてしまったとき、この小説のどこかの一行、あるいは一茶の句の一つが小さな癒しになってくれれば……。そう願ってやみません。

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