井上から託されたグラブを左手にはめた浜名は、急造投手とは思えない内角をえぐる鋭いシュートを武器に、準決勝で八千代松陰を完封。決勝の木更津中央(現木更津総合)戦でも1失点完投し、チームを18年ぶりの夏の甲子園に導いた。
甲子園でも初戦(2回戦)の延岡学園戦で、10安打されながら最少失点に抑え、2対1の逆転勝利。3回戦では日大豊山に6対2、準々決勝では横浜を3安打1失点に抑え、4強入り。準決勝の育英戦も、6回までに大量9点の援護を得て、10対7と逃げ切った。この試合では、本来のエース・井上のリリーフ登板も実現した。
そして、決勝の智弁和歌山戦も、浜名は連日の熱投で肩と肘を痛め、「最初から握力がなかった」にもかかわらず、気力で投げつづける。だが、1点リードの8回、ついに疲労が限界に達し、一挙5失点で力尽きた。
深紅の優勝旗にはあと1歩届かなかったものの、甲子園で647球を投げ抜いた背番号4は、ファンに鮮烈な印象を残した。
エース三本柱の一人として、背番号7を着け、87年、チームが春夏連覇を達成した夏の甲子園で胴上げ投手になったのが、PL学園・岩崎充宏だ。
同年のPLは、安定感がある背番号1の左腕・野村弘(元横浜)、豪速球が売りの背番号10・橋本清(元巨人など)、そして、変化球の制球力が持ち味の岩崎と、タイプの異なるエース3人を擁し、“3本の矢”と呼ばれた。
同年のセンバツで、岩崎は3試合にリリーフし、2勝を挙げて優勝に貢献した。だが、史上4校目の春夏連覇がかかった夏は、最後までもつれる試合展開にならなかったことから、2回戦の九州学院戦で3回2/3を投げただけ。2番手で登板予定だった準決勝の帝京戦も、大差がついた結果、出番なし。「これで夏は終わったな」と覚悟した。ところが、翌日の決勝戦、常総学院戦で、思わぬ大役が回ってきた。
4対0とリードの7回、先発・野村が1年生・仁志敏久(元巨人など)の安打をきっかけに、送球エラーで1点を失い、なおも2死二塁のピンチに、中村順司監督はリリーフ・岩崎を告げる。野村、橋本が揃って体調を崩した春の大阪大会で、甲子園に直結しない試合にもかかわらず、孤軍奮闘した“3番目の男”の陰の努力に報いたのだ。