1965年から73年まで前人未到の9年連続日本一を達成した巨人の“V9戦士”からは、多くの監督が生まれている。リーグ優勝5回、日本一2度の長嶋茂雄監督、巨人とダイエーでリーグ優勝4回、日本一2度の王貞治監督、西武でリーグ優勝8回、日本一6度に輝いた森祇晶監督が代表格だが、その一方で、1度も優勝できずに終わった監督もいる。
【写真】V9経験者の中で、最も短い期間で監督を退任したのはこの人
日本ハム、ヤクルトで計7シーズン指揮をとりながら、1度も優勝の美酒を味わえなかったのが、高田繁監督だ。
1984年オフ、39歳で日本ハムの新監督に就任。食品会社のフレッシュなイメージと、営業サイドの「人気」という条件を兼ね備えた青年監督は「投手力を含めた守りを固め、頭を使った野球をやっていきたい」と抱負を語った。
1、2年目は5位に終わったが、3年契約最終年の87年は、西崎幸広、松浦宏明ら若手投手陣の台頭でAクラス入り(3位)、続投が決まる。
だが、翌88年は、主力に故障者が相次ぐなか、2年連続の3位をキープしたにもかかわらず、「優勝争いに1度も加われなかったのは指揮官の責任」と球団側の慰留を固辞して身を引いた。
その後、日本ハムGM時代の07年オフ、21年ぶり最下位に沈んだヤクルトから「OBに限らず、チームを強くする人に任せたい」と新監督を要請されると、「年齢的(62歳)にも最後のチャンス」と2度目の監督に就任した。
「厳しさはよく分かっているつもりだったけど、話を貰うと引き受けてしまうんだから、監督という仕事には、それだけの魅力があるんだよ」(「私の失敗 激情篇」サンケイスポーツ運動部編著)。
ヤクルトでは「投手力を中心とした守りや機動力を生かした、1点を大事にする野球をしたい」とスモールベースボールを掲げ、1年目は5位に終わるも、翌09年は3位に躍進し、球団初のCS進出を実現した。
だが、さらに上を目指した3年目は、4月中旬から急失速し、交流戦でも連戦連敗。午前4時過ぎまで眠れない日々が続き、少年ファンから「やめちまえ!」とヤジられたことも、「子供には意識して良く接してきたつもりだから、ショックだった」という。