岡崎雪声が明治時代に制作した二宮金次郎像。明治天皇が飾っていたものとほぼ同じ形状=小田原市、米倉昭仁撮影

明治天皇のお気に入り

 金次郎像の原型は、東京美術学校(現・東京芸術大学)で教鞭をとっていた岡崎雪声が1910(明治43)年に発表した、高さ約30センチの銅像といわれる。

「これを明治天皇がいたく気に入ってお買い上げになり、執務室の机に飾っていたそうです」(同)

 その後、この逸話を知った神戸証券取引所の理事だった中村直吉が、1928(昭和3)年、昭和天皇の即位式を記念して地元の小学校などに金次郎像を寄贈。メートル法の普及も意図され、像の高さは1メートルだった。これをきっかけに、金次郎像を小学校に建てるブームが全国で巻き起こった。

幸田露伴が1891(明治24)年に出版した「二宮尊徳翁」の口絵。薪を背負い読書する少年時代の姿で、全国の小学校に建てられた像のモデルになったとされる=小田原市、米倉昭仁撮影

金次郎像のふるさととは

「銅器のまち」として知られる富山県高岡市は「金次郎像のふるさと」でもある。鋳造メーカー「平和合金」は、90年ほど前から金次郎像をつくり続けてきた。

「最近の注文は幼稚園や企業からがほとんど。親孝行をしようとか、一生懸命に働こうとか、金次郎像は生きる指針になる。だから今も製造の依頼が絶えないのだと思います」と、同社の藤田益一会長は語る。

 金次郎像づくりは手間がかかる。

 長い冬の間、雪に閉ざされる高岡の銅器産地は金次郎像をつくるのに向いていた。

「全国に建てられた金次郎の銅像の9割以上は高岡産だと思います」(藤田さん)

報徳博物館が引き取った二宮金次郎像。展示企画用にデザイン会社が「メルカリ」で購入したものの、展示が中止になったという=小田原市、米倉昭仁撮影

背中に担いだ「柴」が難しい

 また、難易度も高かった。

「失敗する確率が高くて、1体注文を受けても通常の鋳物の3つぶんくらいの値段をつけないと、割に合わなかったと、先代から聞いています」(同)

 鋳造技術が大きく進歩した現在でも、難しいという。

「一番手間がかかるのが、背中に担いだ『柴』で、細かい細工が必要です。できるだけ忠実に、という思いでつくっています」(同)

金次郎像はSDGsに通ずる

 最近では金次郎像に新たな意味も見いだされている。昨年11月、小田原市立町田小学校に金次郎像が設置された理由の一つが、自然との調和を図りながら経済活動を行うことの大切さを説いた報徳の精神が「SDGsに通ずる」だった。

 江戸時代に持続可能な社会の実現を目指して活動した金次郎。その教えは今だからこそ、理解されやすいのかもしれない。

1946(昭和21)年3月に発行された1円札に二宮尊徳(金次郎)が採用された=小田原市、米倉昭仁撮影

(AERA dot.編集部・米倉昭仁)

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