本書のなかで旧ジャニーズの問題を報じながら、「私達自身の報道姿勢が問われています」と語るキャスターやテレビ局の人間について、太田は「言葉の軽さ」を感じ取っている。問われていると語った人々のなかで、何人が自らの人脈を使い、率先して問題を取材して、責任を持って企画を作り上げて社会に問うたのか。もはや一連の問題は取り上げられることすら少なくなった。

 旧統一教会問題にしても、太田の発言は正義感や責任感に駆られた人々から「無知」か「軽率」というレッテルで片づけられることが多かった。彼の発言は炎上騒動を招いたが、問題を真摯に、より深く位置付けていたのはレッテルを貼って満足したジャーナリストよりも太田の方だった。彼は「いるんだかいないんだか、あるんだかないんだかわからないもの」を信じること、つまり信仰によって発展してきた人類の歴史を考察し、人間にとって「信じる力」はどのような意味を持つのかを考えている。

 ジャーナリズムの世界は「潔さ」の美学すら通り越して、「軽薄さ」に接近している。そんな時代に、なぜ太田は深みへと向かうのか。私は爆笑問題の漫才を見ながら考えていた。本書を読み、ようやく少し理解できたような気がする。キーワードは本書に織り込まれた「親切心」だ。

「立派な人ほど難しいだろうが、時には自分の信じていたものを捨てるという愚かさ。自分の「道」に対する無責任さを持つことだ」

 自分の信じた「道」に責任を持てと説くのがよくあるパターンの説教だが、太田は対面して会って、人の意見を聞いた上で相手の意見に流されてもいいと書く。私が思うに相手と向き合い、揺らぎ、「こうした考えもある」と認め、変化することを太田は「親切心」と呼んでいる。「親切心」によって潔さからは遠のき、複雑な思考が始まり、やがて迷走が始まる。そんなものを持たずに生きた方が時代にはフィットする。だが、どうしても言葉は軽く、浅くなり、時代に耐えうる力を持たずに消費されてしまう。

 ここに忘却に抗うヒントが——と太田に言っても「俺はそんなに深く考えてないですよ。一番ウケたいだけですよ」とかわされてしまいそうだが……。だが、これだけは伝えたいと思った。この本を読んで、私は「潔くない」自分を肯定できた、と。

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