『芸人人語 旧統一教会・ジャニーズ・「ピカソ芸」大ひんしゅく編』  太田光 著

朝日新聞出版より発売中

 昔から爆笑問題の漫才が好きだった。大いに笑わせてもらっているところは変わらないのだが、最近、少し見方が変わった。

 私は新聞やインターネットのニュースメディアで記者を十数年ほど続けてきた。自ら「ジャーナリスト」を名乗ることはないが、時々、第三者からはジャーナリストと呼ばれることがある。話題の人物や事象を追いかけ、レポートを書いているのだからジャーナリズムの世界にはいる。それにもかかわらず、呼称に違和感を覚えてしまうのだ。

 ジャーナリストの矜持は「今」にすべてを刻み込むという潔さに宿る。新聞でもテレビでもいい。彼らはニュースを報じたその瞬間に全てを賭けており、その直後から記事なり番組なりで報じたことが古びていくことも厭わない。忘れられることは気にすることではない。

 時事問題を題材とする漫才もこの点は共通している。彼らは一本の漫才に全力を傾けるが、二度と同じネタをやることはない。旬の時事問題はすぐに変わっていくからだ。その一点において、時事漫才は古典落語や定番のネタやギャグを織り込む漫才とは異なる強烈な個性を帯びる。言い換えれば、時事を主題とする漫才はすぐに古びていくことを受け入れる潔さが勲章として織り込まれているのだ。

 私はジャーナリスティックな「潔さ」を受け入れられなかった。時事問題は人間が何かをすることで起きるものであり、取材をする相手も人間だ。取材をすればするほど、あらゆるケースに複雑な背景は宿る。それは一朝一夕ではわかった気にさえなれないものだ。そんな人間の複雑さを描きたいと思っていたが、SNSの普及によって「今」という瞬間もどんどん短くなった。インターネットのニュース空間は文字通りの意味で事象はすぐに古くなる。

 太田光が描く時事エッセイに感じるのは、格好をつけた言い方をすれば忘却に抗い、「潔さ」を拒む姿勢であり、本書の言葉をそのまま借りれば「迷走」している様だ。旧統一教会、芸能界だけでなく社会も揺るがした旧ジャニーズ事務所、ロシアによるウクライナ侵攻にしても、芸人ならば笑いに変えられるところをネタにするか、何事もなかったかのように振る舞えばそれでいい。だが、彼はニュースを流さずに受けとめ、立ち止まり、延々と考え続けている。たった一人でじたばたと足掻いているのだ。

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