平安の才女たちは、多くがこの階級に属していた。清少納言の父・清原元輔(きよはらのもとすけ)は周防守(すおうのかみ)や肥後守(ひごのかみ)だったし、和泉式(いずみしきぶ)部の「和泉」という名は夫が和泉守だったことによる。紫式部の父の藤原為時(ためとき)は、彼女が二十歳の頃、越前守となった。実はこの役職以前、彼には十年間、決まったポストがなかった。その末にようやく就いた国守の座だ。『今昔物語集』(巻二十四第三十話)によれば、除目(じもく)(人事異動)での失意を詠んだ漢詩が藤原道長の心を動かしたらしい。紫式部の青春時代は父の失業時代とちょうど重なる。婚期が遅くなったのはそのせいともいう。華やかな貴族社会や恋に憧れつつ、満たされなかった紫式部の娘心を想像してしまう。

 受領の世界ですら、うだつの上がらない父。加えてそこに「世が世なら私も」の思いがあったらどうだろう。紫式部の直系の曽祖父である藤原兼輔(かねすけ)は、中納言(ちゅうなごん)だった。また父の母の父で、紫式部には同じく曽祖父にあたる藤原定方、(さだかた)は、何と右大臣だった。その時左大臣の座にいたのは藤原忠平(ただひら)。彼の直系の曽孫が、藤原道長である。紫式部は、道長一家の繁栄を目にするにつけ、過去の栄光と今の落魄を痛感したのではなかったか。家や血統が今よりも格段に重視された時代、この「三代前」は決して遥か遠い過去のことではなかった。

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醍醐天皇は身内の天皇