兼輔は、入内した娘・桑子が帝に愛されるかどうかが心配で、歌を詠んで帝に奉ったという。「人の親の心は闇にあらねども子を思ふ道に惑ひぬるかな(子を持つ親の心ときたら、暗くもないのに迷ってばかり。子を思うがゆえに、分別をなくしてしまうのです。で、娘をご寵愛いただけますか?)」(『後勅撰和歌集』雑一)。紫式部はこの歌を、『源氏物語』の中で幾度も引用している。そのこと一つをとっても、紫式部がご先祖様や醍醐天皇の時代に心を寄せていたことがはっきりと見て取れる。

 少し前まで華やかだったのに、今は没落して受領階級となった家の娘。『源氏物語』を読むとき、作者のこの「負け組」感覚を忘れてはならない。それは東宮(とうぐう)はおろか親王(しんのう)にさえなれなかった皇子である光源氏のリベンジにつながり、政争に負けた桐壺・明石(あかし)一族のお家復活劇につながるのだ。ほかにも、物語中には数々の没落者がひしめく。父に先立たれた末摘花(すえつむはな)、六条御息所(ろくじょうのみやすどころ)、空蝉(うつせみ)、そして宇治(うじ)の女君たち。中でも空蝉は、実家の昔への矜恃と今属する受領階級への引け目とを二つながら心に抱く点、紫式部自身の分身ともいえる。彼らへの、紫式部の悲しくも温かいまなざしに注目したい。

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山本淳子

山本淳子

山本淳子(やまもと・じゅんこ) 1960年、金沢市生まれ。平安文学研究者。京都大学文学部卒業。石川県立金沢辰巳丘高校教諭などを経て、99年、京都大学大学院人間・環境学研究科修了、博士号取得(人間・環境学)。現在、京都先端科学大学人文学部教授。2007年、『源氏物語の時代』(朝日選書)で第29回サントリー学芸賞受賞。15年、『平安人の心で「源氏物語」を読む』(朝日選書)で第3回古代歴史文化賞優秀作品賞受賞。選定委員に「登場人物たちの背景にある社会について、歴史学的にみて的確で、(中略)読者に源氏物語を読みたくなるきっかけを与える」と評された。17年、『枕草子のたくらみ』(朝日選書)を出版。各メディアで平安文学を解説。近著に『道長ものがたり』(朝日選書)など著書多数。

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