さて、女房名には大方の決まりがある。父や兄など身内の男性の官職名を使うのだ。例えば父が伊勢守(いせのかみ)だったなら、その国名を取って「伊勢」という具合だ。紫式部は、藤原道長の娘である中宮彰子(ちゅうぐうしょうし)のもとに仕え始めた時、「式部(しきぶ)」と呼んでほしいと申し出たらしい。父の藤原為時(ためとき)が、かつて式部省に勤めていたからだ。しかしそこで困ったことが起きた。彰子の周りの女房には、もう既に二人も「式部」がいたのだ。朝廷の官庁名には限りがあるから、こうした事態はしばしば起こる。そんな場合は、姓から一文字を取って前につける。「清少納言」の名も、身内男性の官職名「少納言」に姓の「清原」の一字を取ってつけた名だ。こうして紫式部の場合は、「藤原」から一字を取って「式部」の頭につけ、他の二人と区別した。「藤式部」、訓(よ)み方は「とうしきぶ」。これが紫式部のもともとの女房名だ。既に評判だった『源氏物語』を引っ提げて宮仕えを始めた彼女だったが、最初から「紫式部」と呼ばれはしなかったのだ。
ところが彼女は、それとは全く違う名前で呼ばれもした。自ら記す『紫式部日記』の一場面。寛弘五(一〇〇八)年十一月一日、中宮彰子の産んだ皇子の誕生五十日(いか)の宴(うたげ)でのことだ。和歌・漢詩・管絃と、文化の世界では何でもござれの重鎮である藤原公任(きんとう)が、紫式部にこう呼びかけた。「あなかしこ。このわたりにわかむらさきやさぶらふ(失礼。この辺りに若紫さんはお控えかな)」