公任は、『源氏物語』の女主人公「若紫(わかむらさき)」の名で、作者の藤式部を呼んだのだ。現代に置き換えるなら、宮崎駿氏を「トトロ」と呼ぶようなもの。ちなみに当時の物語は現代のアニメ並みのサブカルチャーだったから、権威の公任にこう呼ばせたことは『源氏物語』の快挙だ。作品が既に世に出回り、しかも高く評価されていたからこそ。そのためこの一節は、当の一〇〇八年からちょうど千年にあたる二〇〇八年に「源氏物語千年紀」が挙行される拠り所ともなった。

 公任が「藤式部」を「若紫」と呼んだのは、その場限りの座興だったかもしれない。だがやがて、彼女は「紫」と呼ばれるようになっていく。公任の戯れをきっかけにしてか、あるいはまた、『源氏物語』における「桐壺更衣(きりつぼのこうい)」から「藤壺中宮(ふじつぼのちゅうぐう)」そして「紫の上」につながる重要な設定「紫のゆかり」にちなんで、読者が作者に与えたリスペクトニックネームか。この「紫」と、もともとの女房名「藤式部」を合体させたのが、「紫式部」だ。藤原道長の栄耀栄華を描く歴史物語『栄華物語』正編には、紫式部は「藤式部」と「紫」と「紫式部」、三種類の名で登場する。『栄華物語』正編の成立は一〇三〇年ごろ。つまりその当時、紫式部の名はまだ一つに定まってはいなかったのだ。

 だが、ほどなく世は彼女を、女房名の「藤式部」でもなく、あだ名の「紫」でもなく、「紫式部」とだけ呼ぶようになる。白河(しらかわ)天皇(一〇五三~一一二九)の命を受けて応徳三(一〇八六)年に作られた勅撰(ちょくせん)集『後拾遺和歌集(ごしゅういわかしゅう)』が、作者名「紫式部」として彼女の歌を入れたのだ。『源氏物語』と一体化したこの名が、国家のお墨付きを得たということだ。残念ながら紫式部自身がこの歌集を見ることはなかったが、知ればどれだけ誉れに思っただろうか。そんな意味でも、「紫式部」は文学史上に屹立する名前なのだ。

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