横綱時代の土俵入り(1997年)

 その後のK-1での曙さんの戦績は、1勝11敗と決して良い成績とは言えなかったが、元大横綱という経歴と知名度、持ち前のキャラクターの強さで、大きな注目を浴びていた。

「体重を落とすとある程度動けるようになるんで、もうちょっと体重を絞っていれば。だけど、体重が落ちなかったんですよね。180キロくらいまで減量してくださいと言っていたんだけど、なかなか落ちなかったんです。減量ができないと両ひざに負担がかかって疲れが出るんです」(石井さん)

 谷川さんも、

「ルール自体が相撲とは合わないというのがもちろんあるんですけど、身長2メートル超、体重200キロ超(引退当時)の曙さんは、体も大きくて、自分の強さに自信があったんです。いつも『大丈夫ですよ』と(笑)。おおらかで楽天的なんです。練習して体を作っていたらだいぶ違っていたと思います。私は『練習不足というより、運動不足ですよ』と言っていたくらいなんです(笑)」

 と曙さんとのエピソードを話した。

プロレスでも大成した

 曙さんは05年に、戦いの場をプロレスに替えた。

「曙さんの日本の団体でのプロレスデビュー戦は、グレート・ムタ(武藤敬司)でした。負けたけど、曙さんはプロレスにすごく向いていると思いました。とってもうまいし、プロレスが好きだったんしょうね」 (谷川さん)

 その後、曙さんは武藤さんに弟子入りし、レスラーとしての教育を受け、師弟コンビでプロレス大賞最優秀タッグを受賞した。その後もプロレス界で大活躍し、新団体を立ち上げるまでに至った。

 そうした多くの実績を残した曙さんの原点となった相撲。そして、仲間であるハワイ出身の力士たち。前出の高見山、元大関小錦のKONISHIKI、元横綱の武蔵丸(現・武蔵川親方)、元前頭の戦闘竜らは身体能力が高く、相撲界に“ハワイアン旋風”を巻き起こした。

 そんな彼らがよく飲みに出かけた、両国駅近くのバー「ペーパームーン」のマスターはこう話す。

「小錦さんが曙さんや武蔵丸さんを連れて、うちの店にやって来たものです。ハワイ出身の力士はみなさんやって来てました。小錦さんは一生懸命、曙さんに厳しく稽古をつけていたようです。曙さんを、当時所属していた部屋まで走らせてましたよ。そうした厳しさもあって、曙さんは横綱にまでなれたんだと思います」

1993年、横綱昇進の伝達にのぞむ曙と東関親方(高見山)

 前出の石井さんは、

「曙さんは、相撲、格闘技を通じて、本当にみなさんに愛された人だった」

 と曙さんを悼んだ。

 力士として頂点に立ち、格闘家として挑戦し続け、プロレスでは数々のベルトを巻いた。明るい性格とおだやかな雰囲気を持ちつつ、強さと熱い思いもあった。

 ご冥福をお祈りいたします。

1997夏場所の千秋楽。曙が貴乃花をあびせたおしで破り、13場所ぶりに優勝を決めた瞬間

(AERA dot.編集部・上田耕司)

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上田耕司

上田耕司

福井県出身。大学を卒業後、ファッション業界で記者デビュー。20代後半から大手出版社の雑誌に転身。学年誌から週刊誌、飲食・旅行に至るまで幅広い分野の編集部を経験。その後、いくつかの出版社勤務を経て、現職。

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