看護師と介護士が訪問

 一般的に、看護師が居宅に訪問するサービスは「介護保険」の給付で受ける。しかし、今回のように看取りを前提にした在宅介護の場合は、在宅医(訪問医)からの特別訪問看護指示書をもとに、医療保険で介護サービスを受けることができる。

 そうなると介護保険を使わなくても看取りはできる。私が在宅介護を始めた当初は、必死にケアマネや訪問介護事業所を探したが、看取り期の父には、点滴の管理や喀痰吸引、バイタルのチェックや薬の投与など医療的なケアをしてくれる訪問看護事業所との契約で十分だった。看護師も排泄(はいせつ)介助(おむつ交換)や清拭をしてくれる。

 それでも訪問介護事業所と契約した。看護師の1日の訪問回数(2回+急変時1回)に加えて、訪問介護士が1日3回来てくれるように依頼したことで、介護士がいる時間に父の見守りを依頼し、私自身が入浴したり料理をしたりした。わずか10日ではあったが、介護は一人では息が詰まる。人の手は多ければ多いほど良い。人の出入りも多いことで、家がにぎやかになったのも良かったと思う。

 退院後、初日は酸素吸入器の酸素量が3リットルだったが、3日を過ぎたあたりから呼吸状態が悪くなり、常に最大の5リットルになった。酸素チューブにコネクターのような器具がついていて、いったんそこで酸素をためてから入れるため、実際に鼻に入るのは10リットルほどの濃度なのだという。酸素吸入のチューブが鼻から外れた状態が1時間ほど続けば死んでしまうと聞き、常にチューブが外れないように見守った。亡くなる2日前からは鼻チューブから酸素マスクに切り替えた。

大好きだったフルーツ

 点滴は在宅5日目に中止した。点滴を止めた2日後。父は、りんごといちごとキウイをペースト状にしたものを食べた。父が大好きだったフルーツ。たまたま訪問看護師の一人が、「最後まで口から食べる」ことをめざす、摂食・嚥下(えんげ)障害看護認定看護師だった。「多少のリスクがあっても、食べたいものを食べさせたい」という気持ちが通じる看護師に出会えたことがすごく幸運だった。

 最後に自宅で過ごせたことで、身内が訪れやすい環境となり、別れの時間を作ることができた。最初の3日間は父の実の妹が何十年ぶりかに田舎からやってきてくれた。90歳の兄と76歳の妹。父はソファに並んで座れたことが嬉しかったのか、夜中に私が目を覚ますと、一人でベッドから起き上がり、日中に妹と座っていたソファに座ってひとり本を読んでいた。父の定位置だったソファ。ここに座り、大好きな読書をする父の姿を見て、在宅で看取ることができてよかったと思った。

 そこからは、日々呼吸苦が増していき、会話が厳しくなっていったが、父は絞り出すように「ガチャガチャ言うな」「あんまり、心配するな」と言った。これが父の最後の言葉となった。そして眠るようになり、意識が低下し、ふわりと逝った。人が死んでいくさまにここまで深く寄り添い、学びを得たのは、今回が初めてだと思う。介護を通して「生きること」を学び、看取りを通して「どう死ぬか」を学んだ。

 父は大好きだった「サウンド・オブ・ミュージック」を聴きながら逝き、葬儀では「エデンの東」を流した。今もこの曲をかけると父がそばにいてくれるような気がする。(ライター・大崎百紀)

AERA 2024年4月15日号

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