「ぴあ」の創刊を思いついたときも、笑顔に囲まれた。大学3年生で、テレビ局のアルバイトに、いくつかの大学の芝居好きや音楽好きが集まっていた。局から近い居酒屋で深夜まで、将来の夢を語り合う。「このまま当たり前に就職するのでは、つまらない」で一致し、自分たちで「世の中にまだないもの」を始めよう、と盛り上がる。
古本屋やカレー店など、自分たちでできそうな案が出た。だが、考えてみれば、そういう分野はもう世の中にでき上がっていて、入る隙間はない。議論の熱が冷めていくが、諦めない。考え抜いたのは「若者たちが望んでいるものは何か?」だ。
思い起こせば、自分が望んでいるのは「どの映画を、いつ、どこで、いくらでやっているのか」の情報だ。東京じゅうの映画館の情報が網羅的に載っている本があったら、どんなに便利か。答えが、みつかった。「人を喜ばせる楽しさ」を知って生まれた『源流』が、流れ始めていく。映画だけでなく、演劇もコンサートの情報などもまとめて、1冊の雑誌にした。「ぴあ」は、若者たちの心をつかんでいく。
もう一つ、『源流』の水源となったのが「映画好き」だ。町立四倉中学校時代、町に映画館が三つか四つあった。ほかに娯楽がないので、毎週のようにいった。都会での封切りからかなり遅れての上映だったが、「映画少年」が育っていく。
猪狩先生と会った後、映画館の一つがあったところへ、いってみた。いまは駐車場になっているが、映画館はいついっても、満席だった。
74歳で声楽を学び次は書道も再開へ父流の筆の持ち方で
地域では当時、人々の暮らしのサイクルに、映画が入っていた。そこで育った「映画少年」の先に、待っていたのが情報誌「ぴあ」の創刊、そして、いまも続く自主製作映画の祭典「ぴあフィルムフェスティバル」(PFF)だ。
大学受験で浪人し、東京の予備校へ入り、1年後の69年4月に中大へ入学。大学紛争のピーク時で、校舎があった神田駿河台でも、学生と機動隊の衝突が続く。キャンパスは学生によるバリケード封鎖と大学側のロックアウトで休講が続き、映画ばかり観にいった。「ぴあ」創刊の翌春に中大を卒業。74年12月にぴあ株式会社を設立し、社長になる。以来半世紀余り、エンターテインメントの世界で「人を喜ばせる楽しさ」を、味わい続けている。
『源流Again』の最後に、これから何をしたいか、と尋ねた。74歳。時間ができてきたので声楽を習い始め、それに書道を加えたい、と答えた。母の思い出は、すぐにいくつも浮かぶが、父ではやはり習字だ。『源流』の水源のなかに、本当は、習字もあったのではないか。
筆は、半世紀以上も手にしていない。でも、また、手のひらに鶏卵を入れているように、柔らかく持ちたい。(ジャーナリスト・街風隆雄)
※AERA 2024年4月8日号