猪狩先生は母と同じ。同期会で会った際に芝居好きと知って、「オペラ座の怪人」の東京上演へ招いた。グリーン車の券を送り駅へ迎えにも出た(撮影/狩野喜彦)

 日本を代表する企業や組織のトップで活躍する人たちが歩んできた道のり、ビジネスパーソンとしての「源流」を探ります。AERA2024年4月8日号では、前号に引き続きぴあ・矢内廣社長が登場し、「源流」である故郷の福島県四倉町(現・いわき市)を訪れた。

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 シナリオ通りの「予定調和」では、人生もドラマも、面白くない。人為的に用意された道には、味わいもない。

 故郷の福島県四倉町(現・いわき市)で経験した「甘納豆事件」で、甘納豆を友だちに売って母に叱られるとは、想定していなかった。でも、思いもよらず「人を喜ばせる楽しさ」を知る。地方都市で数少ない楽しみだった映画観賞が、東京の中央大学法学部へ入ってからも、最優先の時間となる。そして「敷かれたレールの上を歩くような人生は嫌だ」と、大学時代に映画などの情報誌「ぴあ」を創刊し、起業家の道を進んだ。

 どれも「予定調和」でなく、想定外の連続だ。

 企業などのトップには、それぞれの歩んだ道がある。振り返れば、その歩みの始まりが、どこかにある。忘れたことはない故郷、一つになって暮らした家族、様々なことを学んだ学校、仕事とは何かを教えてくれた最初の上司、初めて訪れた外国。それらを、ここでは『源流』と呼ぶ。

 2月上旬、矢内廣さんの故郷の旧・四倉町を、連載の企画で一緒に訪ねた。市の北部、太平洋に面した温暖な地に、両親の墓参りで年に1、2度くるが、小学校の上級生のときに転居するまで自宅があったところへきたのは約60年ぶり。それだけの年数がたてば、記憶は定かでないし、地域は変貌している。ましてや東日本大震災で被災し、失われたものは多い。

奇跡的に遭遇した甘納豆の店の娘は父の書道教室にいた

 四倉の地図を手に歩いても、両親と3歳年下の弟の4人で暮らした場所が、なかなか分からない。ようやく記憶が蘇ったのは、小さな崖がみえたときだ。この近くで、父が勤めていた会社などが、セメントづくりに使う粘土を掘っていた。ただ、そこから先が、蘇らない。

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