フランシス・フクヤマ氏

 リベラルな民主主義では、必ずしもすべての個人が自立して、自律的である必要はないからです。自由を発揮してしたいこととは、すなわち「コミュニティの創設」です。政府がセットして義務的に参加するコミュニティは一つもありません。それは北朝鮮のやり方です。

 リベラルな社会では、教会の一員にもなれます。市民の集団や非営利組織の一員にもなれます。異なる目的の集団です。「他者と交流を持ちたい」という希望を満たすものです。コミュニティの一員として、他者に価値を感じてもらいたいのです。

 リベラリズムは、細分化された個人を必然的にもたらすということはありません。ときにはそのように批判されることもありますが、非常にしっかりしたコミュニティを生み出す舞台にもなるのです。

 リベラリズムに不満を感じることに関して私が言いたいのは、リベラリズムにはある種の文化的な要素が必要だということです。人は互いに信頼を寄せ合う必要があります。これは、信仰や文化や体験を共有する基盤となり得るものです。ですが、互いの信頼関係を失って、ともに取り組むことができなくなれば、リベラルな社会を維持するのは難しいでしょう。

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国民としてのアイデンティティ