例をあげよう。彼女は「うつくしきもの」として、

「おかっぱの髪が、顔にふりかかるのをかきあげもせず、首をかしげて物に見入る子供」

 をあげている。「うつくしきもの」とは現代の「かわいい」と「美しい」をかねたような意味だが、なにげないことばで、いかに巧みに、幼子のあどけない凝視を描きつくしているか、子供をお持ちのおかあさまなら、おわかりになるだろう。そして、この幼子の凝視は、清少納言自身の凝視でもある。

 こうした、さわやかな感性をあげだしたらきりがない。そして、この部分にこそ、彼女の天分はあますところなく表われている。サロンの中での手がら話だけに目を奪われているとしたら、宝石の中から、わざわざ石ころをえらびとっているようなものだ。

 かといって、私は彼女の軽薄さやおめでたさまで弁護しようとは思わない。ただ言いたいのは、人間にはそうした欠点と天分とが時として同居するということだ。紫式部が何と悪口を言おうと、彼女はホンモノの才女なのである。

 では紫式部と清少納言と、どちらがすぐれているか? これはなかなかの難問だ。紫式部には一目一目編み物をしてゆくようなたんねんさがあるが、清少納言には、ずばりとナイフで木をえぐりとる鋭さがある。紫式部を、冷静な瞳と深い知識を備えた優等生型とするなら、清少納言は感性を武器にした天才型だ。

 そう思って読んでみると、例の鋭く速いタッチの中に、ふしぎに透徹した非情さが、にじみ出ていることに気がつく。これは清少納言独特のもので、紫式部ではこうはいかなかったろう。じめじめした感傷をまつわりつかせないこの力量は、日本では珍しい感覚である。

 これを、受領階級の悲しみを知っている清少納言が、わざと悲しみをおさえて突きはなして書いたのだ、という見方もあるが、少し考えすぎで、かえって彼女の本質をとらえていない読み方だ。

「顔で笑って心で泣いて……」

 といったナニワ節調がないのが、清少納言の清少納言たるところなのだ。

 彼女は、むしろ無邪気だ。その突き放した明るさが、たくまずして人生の真髄に迫るのだ。彼女はきっと、明るくて、多少おっちょこちょいな童女めいた女性だったのではないだろうか。が、童女の目が時としておとなより残酷に真実を見すえるように、鋭いきれあじで人生のベールをはぎとってみせてくれる。

 私はむしろ、現代の女性の方々に「源氏物語」よりも「枕草子」をよむことをおすすめしたい。だいいち「源氏」よりずっと読みやすいし、現代に通じる警句があちこちに散らばっているからだ。

「めったにないもの、舅にほめられる婿、姑に思われるよめの君」

 とか、

「憎いもの。急ぎの用の時長居する人」

 などのケッサクがあるほか独特の恋愛美学もズバリと語られている。彼女には、美しいものとそうでないものを区別する、天才的な勘があったらしい。千年前に生きながら、彼女の感覚は今でもとびぬけて新鮮である。