「高血糖の状態が長く持続すると血流が悪くなり、網膜の細胞に酸素や栄養が行き渡らなくなります。望月の歌を詠んだ4カ月後に書かれた道長の日記『御堂(みどう)関白記』には、『目なお見えず。二、三尺相去る人の顔も見えず』と、90cmほど離れた人の顔がわからないほどに視力が低下していたことが記されています。道長に欠けることのない満月が見えたのかどうか、非常に疑問ですね」
望月の歌が詠まれたとされるのは1018(寛仁2)年10月16日、道長53歳。その約半年前の4月15日、道長の日記『御堂関白記』には「夜通し胸が痛み、精神が不安定になった」という旨の記述がある。その1カ月後には、「胸の痛みが絶えず発生し、極めて我慢できないほどであった」という。若林医師によると狭心症などの虚血性心疾患の疑いがあり、道長の体が病にむしばまれていたことがわかる。
「望月の歌」を詠んだときの道長は、非常に痛ましい状況だったと推察されるのだ。
道長の家系には糖尿病患者がずらり
2型糖尿病の主な原因は「遺伝」と「生活習慣」。遺伝といえば、道長は糖尿病患者が非常に多い家系に生まれた。伯父の藤原伊尹(これただ/これまさ)が49歳、長兄の道隆が43歳の若さで亡くなっている。また、若林医師によれば道隆の息子の隆家(たかいえ)も糖尿病網膜症の疑いがあるという。当時はまだ糖尿病という言葉はなく、道長の没後約70年の1094年に「飲水症」という言葉が初めて使われた。
だが、道長は明らかに糖尿病の症状が出ているにもかかわらず62歳まで生きた。若林医師によると、当時の上流貴族の平均寿命は60歳。病名もない、医療も発達していない時代において、十分長生きしたといってよいだろう。これはなぜなのだろうか。
「兄の道隆は、大酒飲みで有名でした。道長が数々の合併症に苦しみながらも平均寿命を超 えることができたのは、ひょっとしたら兄を反面教師にして酒を控えており、それが糖尿病の進行を抑制したのかもしれません」と若林医師は言う。