女房文学の隆盛期にあたる一条朝は、他方では「長徳の変」に見られる摂関家内部の暗闘の時期と重なっていた。中関白家の人々(道隆と定子・伊周・隆家)との対立である。併せて、この長徳は疫病(「長徳の大疫癘」)が発生、社会が死の恐怖に慄いた時代でもあった。

 花山天皇の出家事件(寛和の変)を受けて、一条天皇が即位する。その母詮子は一条天皇のみならず、当の道長の運命にも影響を与えた。道長についていえば二つあった。一つは源高明の娘明子との結婚の世話役だ。明子の兄俊賢は道長政権上の四納言の一人とされた人物で、陰に陽に道長を支えたことでも知られる。高明の失脚で孤独となった明子に詮子は保護を与え自邸(東三条院)にすまわせるなどの世話をした。

 そして、二つ目は一条天皇の政権補佐役(内覧)への後押しである。天皇が関白に準ずる立場を伊周か道長で迷いあぐねたおり、道長寄りの進言をしたことだった。

 当の一条天皇は最愛の后定子の肉親たる伊周を推挙したかった。しかし詮子は道長の推挙を勝ち取り、ついに弟道長に内覧への道を拓いたのだった。

「ワレ人ヲ得タルコトハ延喜・天暦ニマサレリ」とは、北畠親房『神皇正統記』に伝える一条天皇の発言だ。『十訓抄』(第一)にも同様の話が載せられており、世評での一般的解釈といえそうだ。その『神皇正統記』には、道長についての興味深い指摘もある。例によって要約しておく。

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一条朝は道長と紫式部の最盛期