「道長は当時は大納言だったが、内覧の宣旨で左大臣にまでなった。けれど、延喜・天暦の昔を想起されたのだろうか、関白にはならなかった。……兄弟は多くいたが、この道長大臣の流れを摂政・関白というのであった。以前にあっても、どのようなわけか、昭宣公(基経)の三男の貞信公(忠平)が継承し、またその貞信公の二男の右大臣師輔の流れが後継となり、さらにその師輔の三男であった東三条の大臣(兼家)が家を継ぐこととなった。兼家の後継となった道長もまた庶子だった。このように彼らはみな父が立てた嫡子ではなく、自然と家を継承することとなった。祖神(天児屋命)のはからいによる筋道だったのだ」
そして親房は右に語った道長登場に到る流れをのべつつ、その一条天皇の時代は、「サルベキ上達部、諸道ノ家々・顕密ノ僧マデモ、スグレタル人オホカリキ」(そういうことだから、上達部〈公卿〉や諸道の家々、さらには顕密の僧侶たちに至るまで、秀れた人々が輩出した)との指摘をしている。
毒瓜説話での「術道ヲ得タル人々」を彷彿とさせる場面とも符合することになろうか。まさしく一条朝は道長そして紫式部の時代に対応した王朝の盛期だった。