道長の姉である詮子は十七歳で円融天皇に入内、女御となり懐仁親王(一条天皇)を生み、「三道」(道隆・道家・道長)時代の到来に力を与えた女性だった。彼女は、道長の第二夫人明子を結びつける媒介役にもなり、何より、関白(内覧)の行方をめぐり、一条天皇が、伊周か道長かの選択を迫られたおり、道長の内覧就任の道筋を作った立役者だ。道長にとっては、最大の恩人といえる。歴史学者・関幸彦氏の新著『藤原道長と紫式部 「貴族道」と「女房」の平安王朝』(朝日新書)から一部を抜粋、再編集し、道長を支えた姉詮子を一条朝の流れとともに紹介する。
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『百人一首』に登場する女房歌人の圧倒的多くがこの一条天皇の時代に集中する。女流歌人のオンパレードといってもよい。それほどまでに王朝という語感に当てはまる時代が一条朝だった。二十五年という長期にわたる在位の影響もあるが、それを補翼した道長の存在はさらに大きい。
寛和・永延・永祚・正暦・長徳・長保・寛弘と続く一条天皇の年号は、道長の二十一歳から四十六歳に対応する。道長の政権担当者としての最盛期がその一条朝ということができそうだ。生母は詮子(東三条院・道長の姉)である。天皇は天元三年(九八〇)年に誕生、立太子は四年後の永観二年(九八四)のことだ。道長とは十四歳ほどの年の差だった。