中関白家一族との“はばかり”関係は、伊周の弟隆家についても同様だった。隆家は「刀伊入寇」にさいし、率先して戦った豪胆な貴族であり、『大鏡』(道長の栄華を史実性を加味して描いた歴史物語)が語る場面でもわかるように、道長も気難しい隆家を苦手とした。
隆家が道長の土御門邸に招かれたことがあった。寛弘元年(一〇〇四)あたりのことだ。宴の最中、ホスト役の道長は無礼講でくつろぐことを伝えた。厳格な態度を崩そうとしない隆家に一族の公信(藤原師輔の孫で、為光の子)が装束の紐を解かれそうになり、立腹する場面があった。「隆家は不運なることこそあれ、そこたちにかやうにせらるべき身にもあらず」(不運なことが重なった自分だが、お前たちにそんな振舞いをしてもらう立場じゃない)と言い放ち、場が白けたという。
そんな扱いにくい隆家にホストの道長は、気転を利かせ“まあまあ私が紐をお解きしますから”とにこやかに対応、事無きを得たとある(〈道隆伝〉)。まさに“はばかる”べき相手と意識しつつも、道長は「如才無く」行動する力量もあったようだ。このあたりに道長の真骨頂があった。