生きていく上で、人間関係のストレスは避けては通れないもの。それは当然ながら、藤原道長や紫式部が生きた時代にも共通していた。日本史上最も長い平安時代は、平安京にイメージ化される時期と、それから脱皮して京都と呼称される段階とに区別できる。十世紀以降の後者の“王朝時代”について、人物を介して時代を見直すアプローチを行ったのが歴史学者の関幸彦氏だ。関氏の新著『藤原道長と紫式部 「貴族道」と「女房」の平安王朝』(朝日新書)から一部抜粋、再編集し、紹介する。
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道長にもあった〝はばかりの関〞
藤原実方は宮中での暴力トラブルで陸奥へと左遷されたとされる。その実方には人間関係の煩わしさからの解放を願うべく詠じた次の歌がある。
やすらはで 思ひ立ちにし 東路に ありけるものを はばかりの関
藤原道長と同時代の実方は、白河関を越えた陸奥にこそ人的煩わしさから解放された理想郷があると期待した。けれども期待した「はばかり」無き人間関係は望めなかったようだ。現実の人間関係の煩わしさが、この歌のポイントとなる。
ならば、“無敵の人”とも思われる道長にも「はばかりの関」に該当する場面は、あったのであろうか。つまりは人間関係での“煩わしさ”の壁である。