権勢を手中にした当の道長とて、当初から順風ではなかった。人事面での“はばかる”べき人間関係はあった。中関白家(平安中期の関白藤原道隆を祖とする一族のこと)も、そうであった。道長の兄道隆の家筋との確執は、身内とはいえ、超えねばならない“はばかり”の関係だったのかもしれない。
道長は兼家の五男にあたる。嫡妻時姫を母としつつも、道長の氏長者への道のりはさほど近いわけではなかった。同母の兄には道隆が、そして道兼もいたからだ。「三道」ながら、庶子たる道長が兄たちを超えることは難しい。その超え難い壁が兄たちの死去という偶然によって崩れ、新しい展望が拓けた。道長の政治的手腕とは全く無関係に、待つことにより拓かれた“新なる道”だった。とはいえ、その道は必ずしも平坦ではなかった。
道長が政界に躍進するのは、彼が三十代に入ってからだ。その契機となったのが長徳の変だった。“はばかるべき関”が消えてしまった奇妙な事件でもあった。「勝チニ不思議ノ勝チアリ」(江戸期の松浦静山の名言)の表現にそぐう事件でもあった。甥たちにあたる伊周と隆家が従者に指示して起こした、花山院への意趣を含んだ闘諍事件だ。真相は伊周が自分の妾妻のもとに花山院が通っていると勘違いしたことで、勃発したトラブルだった。これが表沙汰になり、伊周がその軽率な行動から配流された。中関白家との関係にあっては、道長自身の関与は不明だった。この事件が道長の権力中枢への追い風となったことは間違いなさそうだ。その点では「勝チニ不思議ノ勝チアリ」の表現が似つかわしい出来事でもあった。