これは、『源氏物語』が生きて楽しまれていたことを示す一場面である。道長は『源氏物語』の内容を彼なりに踏まえ、作者を彼なりに認め、持ち上げた。その空気は、紫式部の作者としてのプライドを満足させただろう。返歌での切り返しも見事にできた。
だからこそ読者は、そこにはただの色事ではない、『源氏物語』風の空気を感じ取る。紫式部の返歌に笑いながら、道長の目には彼女への関心が宿ったのではないか。この作者、面白い女だ――とばかりに。読者の予感は、『紫式部日記』の次の場面への展開によって確信につながる。
真夜中の戸
続く記事は、次の通りである。
渡殿に寝たる夜、戸を叩く人ありと聞けど、おそろしさに音もせで明かしたるつとめて、
夜もすがら 水鶏よりけに なくなくぞ 真木の戸口に 叩きわびつる
返し、
ただならじ とばかり叩く 水鶏ゆゑ あけてはいかに くやしからまし
(渡殿〈わたどの〉の局で寝ていた夜、聞けば誰かが戸を叩いている。おそろしさに、私は声も出さず夜を明かした。すると翌朝、次のような歌を受け取った。
一晩中、私は泣きながらあなたの部屋の戸を叩きあぐねていました。あの、戸を叩くような声で鳴く鳥の水鶏〈くいな〉より、もっと激しく泣いていたのですよ
私はその場で返事を書いた。
ただ事ではない、確かにそう思わせる叩き方でしたわ。でも本当はほんの「とばかり」、つかの間の出来心でしょう? そんな水鶏さんですもの、もし戸を開けていたらどんなに後悔することになっていたでしょう)
(『紫式部日記』同前)