
「苦しんでいる人の力になりたい。諦めなければ何かが起こることを伝えたい。何か小さな目標でも、それを一つひとつクリアしていけば希望が見えることを語っていきたい」
処方薬を飲みながら、講演活動を続けた。講演先は病院や療養施設、あるいは学校だった。講演先には母が必ず付き添い、近県会場には父が車で送迎。家族で息子の夢を支えた。しかし秋口から、体が思うように動かせなくなり、会場の体育館の階段を這って上がった。母はそんな姿に耐えられなくなったこともある。
「もうやめようと言っても、今の自分の姿を見せることで、病気の人に“自分はまだましだから頑張ろう”と思ってもらえればいい、って。そして講演の最後には必ず“一緒に頑張りましょう”と声を振り絞っていました」
講演依頼はすべて受けた。九州から北陸まで70カ所ほどこなしたが、年末になると息が上がるようになった。父は「もう厳しい」と判断し講演会をやめさせようとしたが、息子は引き受けたものは全うしたいと、以降はリモートに切り替えた。
年明けに神戸の病院に入院。ベッドに横たわりながら、たどたどしい言葉で講演を全うした。
鹿児島商業高校の野球部監督だった父は、3月末に辞職。息子と一緒に過ごす時間を選んだ。まなみは、夫は苦渋の決断をしたはずと語る。
「夫は無口な人なので逡巡している様子は見せませんでしたが、夫の夢は生徒を甲子園に連れていくことで、息子に負けないほど情熱を懸けていました。でも夫は、自分の人生より息子を選んだのだと思います」
「メソメソしていたら息子に叱られます」
3月から横田の病室に一家4人がそろった。2歳上の姉は勤務先である東京のテレビ局から週3日、神戸に来た。そして4月、医師の勧めで入院先の近くにある緩和ケア施設に移った。家族全員が寝泊まりできる別荘のような環境だった。医師から「目は見えないが耳は聞こえている」と言われ、両親や姉は日々、阪神の試合を話題にし、些細なことで笑いあった。すると時々、低下した白血球が正常値を示すこともあったという。医師には「生きたいという魂がそうさせている」と告げられた。