掛布雅之2軍監督(当時)と横田選手

 期待の星は超が付くほど真面目で素直。掛布のアドバイスをスポンジのように吸収した。左利きの横田は右手首が弱かったため「箸やペンは右手で持つように」と言われると、ずっと右手で箸を動かした。遠征先のホテルでは掛布からマンツーマンの指導も受けている。

 横田は常に誰よりも早く練習を始め、誰よりも遅くバットを置いた。そんな横田を高く評価していたのが、16年から阪神の監督に就任した金本知憲だった。

 16年の開幕戦で、3年目の横田を2番センターとしてデビューさせた。だが、1軍の水は甘くはなく、30試合に出場したが5月にファームに逆戻り。父は、これからが息子のプロ野球人生の本番と考えていた。

「1軍の投手の厳しさを知ったのは大きい。実戦を踏んだ上で、ファームで再び鍛え直せば光が見えてくると」

 横田も来年こそと胸に秘め、人一倍汗を流していたが、秋口から頭痛に襲われるようになった。症状が顕著に出始めたのは、17年の春のキャンプ。打球が見えなくなってしまったのだ。

 病院に行くと医師にこう告げられた。

「脳腫瘍です。野球のことはいったん、忘れてください」

 横田はすぐに母に電話した。病院に勤務していた母は、病名を2度聞き返した。

「脳腫瘍だなんて……。頭が真っ白になってしまい、たまたま休みで家にいた主人に迎えに来てもらったのですが、車中ではずっと無言でした」

 母は、息子が子どものころからプロ選手になるためにどれだけ努力してきたか目の当たりにしている。一時も妥協しない真摯な練習はもちろん、ゴミを拾えばいいことがあるかもしれないと、ポケットいっぱいにして帰宅することもあった。日常生活のすべてをプロになることに捧げ、やっと道が開けたばかりだった。

 自宅に着くと、母は声を上げて泣いた。「どうした!」とせかす夫に震える声でやっと告げた。「慎太郎が脳腫瘍だって……」

 父も言葉を失った。

 2月、大阪大学付属病院に入院。16日に内視鏡手術を行い、3月30日に18時間に及ぶ開頭手術が行われた。視界が失われてしまったが、2カ月後に少しずつ回復。6月からは抗がん剤投与と放射線治療が始まった。付き添った母は、副作用で苦しむ息子を笑顔で励ましながら、「寮の虎風荘に帰すまでは一緒に闘う」と決めた。

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父は丸刈りで現れた