2023年秋、舞台「ひげよ、さらば」で中島裕翔、柄本時生らと共演。佐賀から母、姉、甥を東京に招待した。姉は「舞台に心を動かされました。弟を誇りに思いました」(撮影/写真映像部・高野楓菜)

泣きながら四股を踏んだ 「サンクチュアリ」の稽古

 ところが、一ノ瀬の演じるヤンキー像は違っていた。

「土着の感じがあって、見た瞬間、逃れられなくなりました。僕は福岡出身でワタルは隣の佐賀の出身です。中学の時はヤンキーブームが吹き荒れていて学校の緊張感が半端なかった。年代は違うけど、同じ風景を見てきた人だなと思ったんです」

 彼に決め、大柄な主人公の話に脚本を作り直した。無名の俳優で大作ドラマを撮るのは江口にとっても冒険だ。居酒屋に誘い、「きみと心中する覚悟でやろうと思う。厳しくするけど最後まで信じてついてきてほしい」と話した。

 江口は見かけだけのアクションではなく、体と体がぶつかり合う本物の相撲を撮ろうとしていた。出演者に厳しい相撲の稽古を課し、さらに一ノ瀬にはスマホで演技を自撮りしてLINEで送るように指示した。「間が足りない」「声が口の中でこもっている」「笑いを取ろうとするな」と細かくダメ出しをして、時には突き返す。一つのシーンを何十回も演じさせた。一ノ瀬は言う。

「相撲の稽古も大変やったけど、これがいちばんつらかった。俺を主演に選んで勝負してくれてる監督をがっかりさせるのがすごく嫌で。『このままの芝居では、俺がやめるか、おまえがやめるかどっちかだ』と返信が来た時は泣いたっすな。稽古で泣きながら四股を踏んでたら、周りの人に心配されました」

 そして迎えた撮影初日は、入門した主人公の猿桜(えんおう)が土俵で“かわいがり”を受けるハードなシーンだった。初主演の喜びは一瞬で吹っ飛び、必死に相撲と監督にくらいついていった。

 猿桜は眼光鋭く、怒りの塊のような男だ。江口は素直でやさしい一ノ瀬とのギャップを感じていた。

「最初に居酒屋で話した時、怒る時はどんな感じなの?とワタルにきいたら、人に対して怒ったことがないと言うんです。自分は怒られてばっかりだと。これは猿桜を演じるうえで致命的だと思いました。それで、僕を憎んで怒らせるように仕向けたんです」

 猿桜を憑依させるには一ノ瀬のキャラクターを一回封じなくてはならないと考えた。楽しそうに共演者と談笑する彼に声を荒らげて注意したこともある。

 過酷な稽古と撮影に、一ノ瀬は肉体的にも精神的にもギリギリまで追い詰められていった。その果てに、頭では撮影している、演じているとわかっていても、心の中では自分なのか猿桜なのか、わからなくなる境地に達していた。

「他人の人生を生きるとは、これかと思ったっすな。それまでは役者の本当のおもしろみがわかっていなかった。こんな没入感を味わったのは初めてだった」

 そこに現れたのは、江口の想定を超える猿桜だった。

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