理論的で格調高く、わるくなっても容易に崩れない不屈の姿勢が杉本昌隆の身上。歩んできた道のりは決して平坦ではなかったが、それでも着実に前へと進んできた(撮影/加藤夏子)
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 AERAの将棋連載「棋承転結」では、当代を代表する人気棋士らが月替わりで登場します。毎回一つのテーマについて語ってもらい、棋士たちの発想の秘密や思考法のヒントを探ります。33人目は、杉本昌隆八段です。AERA 2023年12月18日号に掲載したインタビューのテーマは「印象に残る対局」。

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 杉本昌隆は名古屋在住のまま、修業を続けた。

「師匠(板谷進九段)の教室を手伝いながら、地元名古屋で強くなってプロになるのが、板谷一門として当たり前のやり方でしたから」

 1987年。杉本が三段だったとき、突如三段リーグが創設される。杉本が積み重ねていた白星もご破算にされた。

「なんとなく覚悟はしてましたけれど、猶予期間もなくて。もっと違うやり方はなかったのか。今でも残念ですね」

 半年1期の三段リーグでは上位2人だけが四段に昇段できる。棋士への道はさらに厳しいものとなった。

「リーグ1期目は10勝6敗で、星二つ差の次点でした。そのとき情報格差を感じ『名古屋にいたんじゃダメなんじゃないか』と思ったんです。それで師匠に『大阪に行かせてください』と直談判をし、名古屋を離れ、一人暮らしを始めました。19歳のときです」

 88年2月。東海地区の大黒柱で「若大将」と呼ばれていた板谷がくも膜下出血のため急逝。47歳という若さだった。

「当然自分はいつか棋士になるつもりでいましたし、その姿を師匠に見せるのはもう、当たり前だと思っていた。それが叶わないとは思わなかったですね。昇段のチャンスは何回かありましたが、次点かその次ぐらいになることが多く、なかなか届かなかった。若い年下の三段が入ってくると焦る。針のむしろに座っているような毎日でした」

 1990年。杉本は7期目にしてついに三段リーグを突破。晴れて四段に昇段した。

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