「22歳になる少し前でした。自分の予定よりは2、3年遅かった。当時は羽生さん(善治現九段)の存在が大きかった。羽生さんは私より2歳下ですけれど、中学生棋士(15歳デビュー)になって。20歳超えてからのデビューは、後れをとってしまったかなと」
杉本は振り飛車党のホープとして活躍を始めた。
「私はけっこう晩学というか、勝率が上がったのは20代の終わり頃からでした」
1997年度は0.761というハイアベレージをマークした。
「勝率1位はなんとしても取りたかったんですけど、年度末近くに内藤國雄九段に負けたのが致命傷で、最後は1厘差で2位でした。1位はその後棋聖となる郷田さん(真隆現九段)。内容的にも当然向こうの方が上です。それでも自分の中では『惜しかった』という思いはありましたね」
杉本は師匠の遺志を受け継ぎ、名古屋在住の棋士として活躍を続ける。2002年には朝日オープンで勝ち進んだ。
「中原誠十六世名人との準決勝がすごく記憶に残っています。中原先生は子どもの頃から目標ですし、それまで公式戦では2局負けていたので」
大一番を制し、決勝五番勝負に進出。最後は堀口一史座(現八段)に1勝3敗で敗れたが準優勝の成績を残した。
「一つの棋戦で最後まで勝ち残るのは、棋士にとって本当に嬉しいことだとわかりました。決勝戦は同じ立場で、挑戦者もタイトルホルダーもなかったんですが、タイトルに挑戦したような気持ちを味わわせてもらいました。番勝負の間は主催者の方々と一緒に行動をともにし、本当にいい経験ができました。思い直してみれば結果は残念ですが、いい思い出でもあります」
杉本の名が棋界に大きく広まった2002年。東海では次代のスターが産声をあげていた。それが藤井聡太だ。(構成/ライター・松本博文)
※AERA 2023年12月18日号