奈良県明日香村の甘樫丘は、印象深い。標高はわずか148メートルでも、大和三山が目の前にあり、他方の眼下に飛鳥寺を囲んで散在する集落。いにしえの「国」の姿が浮かぶ。
初めて上ったとき、不思議な感覚がした。「万葉人たちはこの麓に家を持ち、そこを歩いていた。いまみている山も、彼らがみた山と変わっていないのだろう」。そして「昔の人々は、大陸から文化や人がやってくる港からこんなに離れた地に、何で、どうやって国をつくったのか」と思う。
何度か訪れて、「自分もやらなければいけないこと、やったほうがいいことを、素直にやっていこう」と思いを定める。垣内永次さんのビジネスパーソンとしての『源流』が、この丘から流れ始めた。
自前主義を捨て社内の抵抗を抑えて他社の製品を売る
天理大学外国語学部(現・国際学部)のロシア語学科を78年春に卒業し、シベリアの木材を輸入していた北海道の製材会社に入社。ところが、木材不況が続いて会社がソ連との交易から撤退を決め、丸3年で大日本スクリーン製造へ転じた。海外営業部で共産圏を担当。オランダのアムステルダム郊外にあった販売・サービス会社の社長を経て、89年9月に冒頭のアーバイン勤務が始まる。
94年4月に帰国し、海外営業部の欧米課長の後、新設した調達部へ移った。何でも自社でつくる自前主義の時代。他社製品も扱うとかよそと組むことは、技術者や営業部隊の抵抗でできない。でも、それをやるのが、調達部をつくった狙い。「ほかの人と同じことは、やりたくない。誰もやろうとしないことでも、必要だと思ったらやる」の『源流』からの流れが、また勢いを増す。