印刷ソフトの開発にみつけたリーダーは考え方が近かった
まず、開発チームのリーダーの採用に動く。紹介会社のリストから、東海岸のボストン市にいた男性を選び、面接に赴く。5歳ほど年下で、「新天地でチームを率いて、誰もやらないことに挑戦したい」と言う。考え方が、自分と近い。チームの中核メンバーの採用を任せ、約30人の陣容が揃う。
開発に、2年もかからない。想定より早く、米国のITの世界のスピードを感じた。
できたソフトに「Omega File Exchange」(OFX)と名付け、「きみに任せる」と言った副社長を京都から招き、パッケージ箱のデザインを3種類みせて、選ぶ役をしてもらった。自分史で「感動」という言葉に縁が薄かったが、このときは、みていて胸が震えた。
OFXの投入で、米国でスクリーン製造の印刷機器を買ってくれていた会社が、マックとつなぐことができるようになる。それよりも、DTPの普及が遅れていた日本で、喜ばれた。従来の印刷システムは億円単位だが、「OFX」は百万円程度。技術革新の波に乗り遅れずに済んだが、人がやらないことに挑んで、周りがついてきてくれたのが、うれしい。
荒波をかぶった祖業 いま世界でトップ級収益を支える柱に
祖業の印刷機器は、デジタル化、パソコンで簡単に印刷できるソフトの主役化など、幾度も技術革新の荒波をかぶったが、いまデジタル印刷機で世界のトップ級。世界シェア約4割と中核事業になった半導体製造用の洗浄装置の陰で目立たないが、収益を支える柱の一つだ。
1954年4月、和歌山県北部の金屋町(現・有田川町)に生まれる。父は郵便局で働きながら、母と有田ミカンも手がける兼業農家。兄と妹の5人家族で、ミカンの収穫を手伝いながら、山野を駆け回って育つ。地元の小中学校から隣町にある耐久高校へ進み、二輪車の運転免許を取得。父の中古のオートバイを借りて、いろいろなところを巡る。ときに県境を越えて、奈良の飛鳥の里へもいった。