しかし、この騒動は、明石全登にとっては、幸運なことであった。重臣が多く去ったことにより、家宰として、宇喜多家を取り仕切ることになったからだ。全登は宇喜多家を去らずに、残ったのだ。全登の知行は、十万石にのぼった。関ヶ原の戦いにおいては、宇喜多家は西軍に与した。全登はそれに従い、東軍に加勢した戸川氏を調略しようとしたという。西軍に属して戦った全登であったが、戦は東軍(徳川方)の勝利に終わる。戦後、主君・秀家は死罪は免れたが、最終的に八丈島に流罪となった。

 関ヶ原合戦までに、全登は、キリシタンとなっていた。宇喜多家が没落したため、牢人となった全登は、黒田長政を頼った(長政の父・如水〈官兵衛〉はキリシタンであった)。筑前における全登の動向は不明である。

 そして慶長十九年(1614)、大坂の陣が起こる。徳川幕府はキリスト教を禁教としていたこともあり、全登は豊臣方として参戦したともいう。全登は約四千の軍勢でもって、大坂城に入ったとされる(急遽、集められた兵士と考えられる)。白地に花クルスの旗印のもと、戦いに臨んだという全登。しかし、大坂夏の陣後の全登の消息は不明となる。南蛮に逃亡したとの噂が流れるほどであった。

※週刊朝日ムック『歴史道Vol.30 関ヶ原合戦と大坂の陣』から