車で送迎が必要な学校に通う3児の母の日常は忙しい。「子どもには難しいチャレンジをどんどんしてほしい。朝を迎えるたびに、今日1日をどう生きるかを考えようと伝えています」(撮影/小山幸佑)

 大学の観光学科という進路があると教わり、進学を決めた。人は誰かに応援されるだけで、大きな力を発揮する。自身の変化によってつかんだ発見が、藤岡の現在の活動に深くつながっている。

 大学ではこれまでの空白を取り戻すように勉強に打ち込み、本も山のように読んだ。知識を広げた延長で教育系の仕事に興味を持ち、急成長中だった経営コンサルティング会社から内定を取るも、希望していた教育事業撤退の報せを聞き、入社を辞退。持ち前のバイタリティーで、すでに募集を締め切っていた人材教育会社に面接を取り付け、アルバイトとして入社することを許された。

地域に交流の場をつくる 「パンクなアクティビスト」

「1年間のお試し修業」の名目で経理・企画・営業など全部門を回されたことは、藤岡にとって好都合だった。短期間でビジネスの全体像を習得でき、その後のキャリアに大いに役立ったからである。最後に所属した営業部門でノルマだった高額の商材を売り切って、社員登用の誘いを受けたが「ここではもう全てをやり切った」と退社した。

 会社を辞めた後、友人から誘われ、介護ベンチャーの創業に参画したのが24歳の頃。住宅型有料老人ホームを立ち上げると聞き、「父を看取った自分だからできることがあるのでは」と直感した。「若いのに、老人福祉なんて偉いね」という褒め言葉はピンと来なかった。藤岡は、ただ自分の渇きを満たすために踏み込んだだけだった。父の最期に何ができたのか、「あのときの答えを知りたい」という渇きを。

 就職活動期に出会ったパートナーとの婚約、妊娠と人生が大きく動き出した矢先、今度は母の末期がんが見つかった。兄姉と交代で三重にある実家で看病し、最期は病院で看取った。このときも「死」や「看取り」の正解は見つからなかったが、死にゆく母から目を背けず向き合った家族とは、遺された後も共に生きる同志になれた。

「人はいつか死ぬ。自分にとって大切な人もまたいつか死にます。日常の中に『死』を身近に感じられる機会がもっと増えれば、あのときの私が死にゆく父を恐れて戸惑うこともなかったのではないか。そんな仮説が、いつも私の中にありました」

 同時に、「老人ホームにはなぜ老人しかいないのか」という疑問も抱えていた藤岡は、「地域で暮らす人々が共に過ごす時間と場所を増やしたい」と、地域で社会課題を話し合う活動を活発化していく。

(文中敬称略)(文・宮本恵理子)

※記事の続きはAERA 2023年11月27日号でご覧いただけます

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