元暦二年(一一八五)三月、平家が壇ノ浦で滅亡すると、万年右大臣だった兼実に、ようやく運がめぐってくる。頼朝は後白河が義経の挙兵を支援したことを理由に朝廷人事に介入し、政府首脳を親幕府派で固めた。兼実は中立を貫いた姿勢を評価され、国政を審議する議奏公卿の筆頭に指名され、翌年、基通に代わって念願の摂政に任じられたのである。

 建久元年(一一九〇)には娘任子を後鳥羽天皇に入内させ、外戚の地位に望みをかけたが、これが没落の一歩となった。長女大姫を入内させようと画策した頼朝が、兼実を敬遠し始めたのだ。同じく外戚をねらう権大納言源通親は二人の不和につけみこみ、後鳥羽に働きかけて任子を追放。兼実も罷免され、基通が関白に返りざいた(建久七年の政変)。

 ただし、兼実の行動にも問題があったらしい。エリート意識の強い兼実は、後鳥羽の母七条院殖子の身分が低いことから元旦の拝礼に出仕せず、恨みをかっていたといわれる。以後、兼実が政界に復帰することはなく、晩年は浄土宗の法然を戒師として出家。承元の法難(専修念仏の弾圧事件)で法然が配流されたのを嘆きながら亡くなった。

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