源義経(左)と藤原秀衡(拡大図)

 奥州藤原氏の最盛期を築いたのが三代秀衡である。陸奥守藤原基成(平治の乱を起こした信頼の兄)の娘を正室に迎え、朝廷への貢納も欠かさず中央政府と良好な関係を保ち、安定した支配を実現する。平家が全盛期を迎えると、日宋貿易の輸出品として奥州産の砂金を確保したいという政権の思惑もあって、嘉応二年(一一七〇)、武家の名誉職である鎮守府将軍に就任する。九条兼実は「奥州の夷狄」である秀衡の任官は「乱世の基」であるといって嘆いた。平家打倒を志して京を逃れた源義経を、平泉に迎えたのもこの頃である。

 治承・寿永の内乱が始まると、平家から鎌倉の頼朝の背後を脅かす存在としての役割を期待され、破格の陸奥守に任じられた。奥州十七万騎と称された軍事力は頼朝の脅威となったが、秀衡は鎌倉を攻めず、中立を保つことで奥羽の平和を守ろうとした。

 平家滅亡後、西国の脅威を取り除いた頼朝は奥州への圧力を強めていく。秀衡は兄頼朝と対立していた義経を平泉に迎え、鎌倉幕府との全面戦争も辞さない決意を固める。しかし、間もなく秀衡は病におかされ、義経を主君と仰いで仕えるよう、長子国衡と嫡子泰衡に遺言して亡くなった。しかし、泰衡は度重なる頼朝の圧迫に耐えきれず、義経を攻めて自害に追い込む。奥羽の征服をもくろむ頼朝はこの機会を逃さず、二十八万騎と称する大軍で攻め込み平泉を制圧(奥州合戦)。泰衡は家人に殺害され奥州藤原氏は滅亡した。

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平家と対立した九条兼実