平泉で面会する藤原秀衡と源義経(大日本歴史錦繪、国立国会図書館デジタルコレクション)
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 天皇家と強く結びつく摂関政治で摂政・関白の職を独占し、栄耀栄華を極めた最強貴族の藤原氏。その中から、平安後期に活躍した奥州藤原の全盛期を築き上げた藤原秀衡、五摂家の一つ九条家の祖である九条兼実をピックアップ。『藤原氏の1300年 超名門一族で読み解く日本史』(朝日新書)から一部を抜粋、再編集して紹介する。

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藤原秀衡 奥州藤原氏の最盛期を築いた北方の覇者

 奥州平泉(岩手県)を拠点として百年にわたって奥羽に君臨した奥州藤原氏は、藤原秀郷の子千晴または千常の後裔という。初代清衡の父藤原経清は、五位の位階をもつ奥州の在庁官人であった。奥六郡(衣川関以北の地域)の俘囚(朝廷に服属した蝦夷)の長安倍頼時の娘を妻として清衡をもうけたが、前九年の役で源頼義に敵対し処刑。清衡は母が再嫁した出羽の豪族清原武貞に育てられる。やがて、清原氏で内紛が発生すると、清衡は陸奥守源義家の助力で勝利し清原氏を継承する(後三年の役)。朝廷から奥六郡の支配権を認められた清衡は、姓を清原から藤原に戻し、平泉に拠点をおいて奥羽全域を支配した。

 二代基衡は、悪左府頼長による摂関家領の年貢増徴要求を退け、美福門院得子や藤原家成ら院近臣を味方につけて国守の介入を防ぐなど、巧みな経営手腕で支配を固めた。奥州藤原氏は豊富な砂金や北方の珍奇な交易品によって富裕を誇り、清衡は金色堂で有名な中尊寺、基衡は毛越寺、次の秀衡は無量光院を建立し、平泉に華麗な仏教文化を花開かせる。

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鎌倉幕府からの圧力