九条兼実 源頼朝の援助で摂関となった九条家の祖
九条家の祖兼実は藤原忠通の六男である。母は摂関家に仕える女房で、同母弟に天台座主を四度務め、史書『愚管抄』を著した慈円がいる。母の身分は低いが姉聖子(崇徳天皇の中宮)の支援により十八歳で右大臣となった。しかし、時は平家の全盛期。兼実は平家と距離をおいたこともあって、以後二十年間、右大臣にすえおかれる。
当代随一の有識者であった兼実は、伝統や慣例を軽んじる平清盛や後白河院に批判的であり、その胸中は日記『玉葉』にあますところなく記されている。嘉応二年(一一七〇)、清盛が福原(神戸市)に宋人を招いて後白河に引き合わせた時は「天魔のなすところ」といって批判し、内乱が全国的に拡大する中、清盛が熱病で亡くなると「神罰、冥罰を知るべし」と記して溜飲を下げた。
兼実の批判は平家と結ぶ甥の近衛基通にも向けられる。治承三年のクーデターで兼実の兄基房が配流され、清盛の娘婿の基通が摂関になった。しかし、基通は若く実務経験にとぼしいため、有職故実に通じた兼実が高倉天皇から儀式作法の相談を受けるなど、本来、摂関が行うべき役割をになった。兼実は「関白、あってなきがごとし」と嘆息し、慈円も兄に同情して「摂関の歴史始まって以来の不中用(役立たず)」と酷評している。