お客さんの顔を見る
もともと、東は文芸批評の世界を中心に活躍していた。しかし、そこに閉じこもっていたのでは見えないものもある。起業した経験が世界の見方を訂正させ、東はそこからより広い視野を手に入れることができたのだと言う。
「文筆業だけをやっているとお客さんの顔が見えづらい。仕事の相手は編集者だし、誰が本を買っているのかがわかりません。でも会社を経営し始めて、実際の姿が見えるようになりました。読者と触れ合うことはフィードバックをもらえるという意味でも良いことなんです。驚きや新しい刺激をもらうことができる。SNSを眺めているだけではそれは経験できない。僕は出版業界もしっかりとコミュニティビルディングをすべきだと思います。それがなければいつまでも古い考えは訂正されず、新陳代謝ができませんから」
とはいえ、他者との対話で目指されるのは合意を形成することではない。本書ではロシアの文学理論家ミハイル・バフチンを参照しながら対話の可能性が探られるが、そこで強調されるのはジャズのセッションのように相手に合わせて自分の言葉を変えることなのだ。
前進のため過去に戻る
「僕は合意という言葉をあまり信じていません。無理に合意を取ろうとすると、差が可視化され、極端な意見に分かれていってしまう。今、世界で起きているのはまさにそうした友と敵の対立です。むしろ、たがいに意見が違うことを認めて、意見が違っても敵視し合うのをやめたほうがいいと思う。あえていえば『わかりあえないまま放置する』勇気が大切です。一度合意を諦めた上で、それでも関係を維持するべく互いが変わっていくことが大切なのだと考えています」
世界の分断が叫ばれるなかで、訂正しながら生きていくための歩き方を教えてくれるのが『訂正する力』だ。それは生きることを肯定する術でもあるが、そのために重要なのは過去をリセットすることではない。
「とにかく日本人は若さとリセットが大好きなのですが、その発想はやめた方がいい。本書のなかでも書きましたが前進するためには過去に戻ることも必要です。重要なのは過去と現在をつなげること。『訂正する力』はそれを可能にする力でもあるのです」
(ライター・書評家・長瀬海)
※AERA 2023年10月16日号