先物取引で得た教訓は「バックアップ」。米国の野球では失策に備え他の選手が背後を固めること。万が一に備える手を、常に打っておく心得だ(撮影/狩野喜彦)

 日本を代表する企業や組織のトップで活躍する人たちが歩んできた道のり、ビジネスパーソンとしての「源流」を探ります。AERA2023年4月10日号より。

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 1983年暮れ、米ニューヨークのマンハッタンに拠点を置く丸紅米国へ赴任し、米国市場で原油など石油類の取引を担当する。入社して9年目の31歳。商社の世界で「トレーダー」と呼ぶ花形の仕事に就いた。

 当初は、日本の石油会社のための現物取引だけだった。どこの商社も、同様だ。だが、商品取引所には、新しいうねりが起きていた。先物取引の急増だ。石油業界の意図に支配されていた現物市場が、ウォール街の金融先物業者の思惑に引きずられ始めた。「石油類も金融商品のようになっていく」。わくわくしながら、先物の準備に入る。

 だが、丸紅では、リスクの大きい石油類の先物は「ご法度」になっていた。ゴムやトウモロコシなどでは、需給動向をにらんで先物も扱っていたが、規模は大きくない。当時の丸紅米国の幹部らは相場経験があまりなく、リスクもわかっていない。

 そういう状況なら、多くのビジネスパーソンは、諦めて別の標的を探すのだろう。でも、両親から受け継いだ「発想の自由さ」が、ぐいっ、と前へ踏み出させた。東京の本社へ「これからは先物が主流。やらせてほしい」と繰り返し、認めさせる。

 価格、購入量、時期などすべて客の指示に沿った「固定的取引」から、世界の原油事情から市場の駆け引きまでを読んで、変動リスクを取って利益を生み出す「自在な取引」へ。トレーダーの腕次第の世界が、幕を開ける。中東情勢が平穏だった時期で、想定外の事態も起きず、最初の1年で大きく稼いだ。

 ニューヨーク4年目の87年6月、ペンシルベニア州フィラデルフィアの郊外に先物専門の会社を設立し、出向した。従業員は24人で、トレーダーは他に3人。起業家になったつもりで臨んだから次第に前面へ出て、年間に約700万ドル(約9億円)の純利益を稼いでみせた。

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