2度の「漂流」を越えて(写真:本人提供)

両親は外出するか知らない人が集まり失った「居場所」

 1952年10月、東京都世田谷区代田で生まれる。両親は祖父母宅に同居していたが、同区内に家を買い、転居した。父は絵画や詩に打ち込み、けっこう巧いと思ったが、なかなか高い評価を得られなかったようだ。母は元声楽家で、国立大学の付属中学校で音楽の教師をする傍ら、音楽大学を志望する高校生らに楽理を教えていた。

 自宅の壁に父の本が並び、好きな本を読めた。家の中に、いつも音楽が流れていた。両親とも外出が多く、団らんのときは少なかったが、在宅しているときは知らない人が次々にきて、詩や音楽を自由に論議する。違和感はなかったが、居場所がなくなることもあり、そんなときは電車で3駅の祖父母宅へ向かった。近くの羽根木公園で遊んだことを、よく覚えている。

 祖父は戦時中に軍関係の商売をやり、最後は日中貿易の会社をつくった。海外経験が豊富で朝食はオートミールと、家の中は外国の匂いがした。

 成蹊小学校から母の勧めもあって、私立麻布学園の麻布中学校へ進む。麻布は自由な校風で知られ、校則もほとんどない。詰め襟の標準服はあるが、学園紛争期に撤廃された。クラブ活動の運営も、生徒が自主的にやっている。麻布へも学園紛争の波が寄せ、授業が止まったりした。そんなときは街へ出て、大人の世界に触れて「発想の自由さ」に磨きがかかる。わくわく感が、『源流』の水量を溜めていく時期だった。

早朝に出社して海外の情報をつかみいち早く注文を出す

 75年春に慶大経済学部を卒業して丸紅へ入社。エネルギー本部石油ガス開発室に配属され、1年近く石油開発関連の仕事をした後、石油第一部製品課へ異動する。石油類のトレード担当の部署だ。だが、先輩が書いた原稿をテレックスで打ち込むばかりの日々。米国へいくまで後輩が配属されてこなかったので、わくわく感は退いていく。

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