湾岸戦争の勃発で相場が急落後に「凪」腕ふるえず清算へ

 実は「この会社がうまくいったら、東京の本社へ帰らなくていい」とまで考えていた。常にわくわくすることをやっていたい。それには、普通なら昇格への「既定路線」とする道も捨てる。この「発想の自由さ」が、國分文也さんがビジネスパーソンとしての『源流』として挙げる両親から得た遺伝子。キーワードは「わくわく感」だ。

 フィラデルフィアに約5年半いた間に、嵐がやってくる。91年1月、米国を中心とする多国籍軍がイラクを空爆し、湾岸戦争が始まった。前年8月にイラク軍が親米のクウェートへ侵攻し、国連の撤退勧告に応じなかったためだ。世界最大の産油地帯での砲火に、原油の供給減が連想され、即座に価格が急騰した。米国などのイラク攻撃は想定内で、値上がりを見込んだ先物の買い残を持ち、価格が上昇を続ければ巨利が出る。

 ところが、開戦から数時間後に「イラクが抗戦できずに制圧される」との予測が流れ、相場は一気に急落した。1バレル=42ドル前後から20ドル未満へ。含み損が、100万ドル単位で膨らんでいく。ちょっと慌てたが、値動きがあるときは売買も容易で、何とか処理できた。

 厳しかったのは、その後だ。湾岸戦争は2月末に終わり、相場は動きがない「べた凪」が続く。相場が動いてさえくれれば損を取り戻す機会もくるが、凪では出番がない。やがて、本社から事業の打ち切りと会社の売却を通告される。トレーダーの世界は結果がすべて。従業員に解雇を通告、会社は丸紅の子会社が買い取って清算へ向かう。

 この間、よく眠れない夜が続く。自ら立ち上げた事業の打ち切りが無念だっただけでなく、解雇者の先行きが気になる。再就職先探しは、一緒に回った。帰国辞令は9月20日付だが、12月初めまで残る。帰国して数カ月後、最後の一人の仕事がみつかった、と知らせが届く。ほっとするとともに、重い教訓が残った。「いい結果ばかりを想定し、もしものときの備えがなかった。これでは、いけない」

 この体験が「発想の自由さ」を支える強い軸となった。

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