「俺は今、会社で仕事をしているけれど、お前さんはちょっと祠に籠もっていてくれ。そして自分自身を見つめてくれ」、と。
訓練でそれができるようになると、長時間引きこもらなくても、本来の自分を取り戻せるんじゃないかと。
夏井:面白いなあ。普段から自分の心の「祠」に、自分をちょっとだけ閉じこめる習慣を持つんだ。
奥田:子規も「主観」と「客観」について語っているように、「自分」は必ず二人いる。普段は「主観」で物事を感じ、活動しているけれど、一方でそれを「客観」的に眺めているもう一人の「自分」がいる。「祠」に籠もることが、まさに客観なんだと。俳句って、「主観」と「客観」を分離するところからだと思うんです。
夏井:まさに、俳句を始めた人は、「あ、自分の中にはもう一人の『自分』がいるんだ。主観と客観があるんだ」と気づき始めるよね。
たとえば、綿虫を見て、「あ、これが噂に聞く季語の綿虫というやつか」と気づくのが「認識」の第一歩。これまで、小さいのが綿みたいにフワフワ飛んでいる鬱陶しいだけの存在だったのが、俳句を始めた瞬間、季語の綿虫としてしっかりと認識されるわけ。
次に来るのが「観察」。「いったいどう表現したら、綿虫を知らない人の脳裏にも、映像として変換されて、ありありと見えるか」と。しげしげと綿虫を眺め始める。
ここで重要なのは、「客観的に観察すること」。つまり「客観視」なんだけど、客観視で最も難しいのが、自分自身を眺める時。隅から隅まで見知っているはずの「自分」が、一番見えていなかったりする。ましてや、自分が自身に対して「カッコいい自分」を演じてしまっていると、「素の自分」を、なかなか客観視できない。どこまでも主観的な自分で突っ走ってしまう。