そういう意味では、子規の客観視のレベルは、凡人を超越しているよね。最後には「自分が死ぬ」瞬間の光景さえ、「客観視」してしまうんだから。
糸瓜咲て痰のつまりし仏かな
奥田:すごいなあ。〈仏〉と言っちゃうんだ。
夏井:死にかけている自分を、幽体離脱のように天井の端っこから眺めている。これが本当の「客観視」。子規にとっては、もはや自分が死ぬことすら、一つの興味の対象になっていたんだろうなと。子規の辞世の句は、俳句をやっている人間にとっては、究極の到達点だよね。
俳人にとっては、自分がどんどん老いていく、その過程すらも興味の対象となっていく。老眼鏡がないと本が読めないとか、ちょっとした坂でもハアハア息切れがするとか。主観的には嫌なことには違いないんだけど、客観的には興味の対象なの。
奥田:心の鍛錬を積み重ねていけば、僕もそこまで行けるんじゃないかな。
夏井:身も心も鍛錬してダンディをこなしてきた奥田さんなら、一歩有利(笑)。
奥田:つけ加えると、「ダンディズム」は「ナルシシズム」ではない。鏡を見てポーズ付けて、「俺はいい男だ」と悦に入っているのとは全然違う感覚だから。
夏井:自分に酔う「ナルシシズム」は、客観視ではない。
奥田:子規の最期の光景なんか、職業柄か、つい映像が浮かんできちゃうんです。根岸の子規庵で、病床に臥せり、もう黄泉の国のほとんど三途の川付近にいる子規が、辞世の三句を詠んでいく。
糸瓜咲て痰のつまりし仏かな
痰一斗糸瓜の水も間にあはず
をととひのへちまの水も取らざりき
五七五という世界最短の文学に、己を凝縮する。最期のエネルギーを俳句に託す一人の男の姿を、どうしても想像してしまいます。
