ほかにも、「体調が悪くなっていることに気づけない」「他の人が熱くて触れない皿を平気で持ち、あとで皮膚が赤く腫れたりする」など、どれも日常生活を脅かすほどの苛烈な体験談が、アンケートには連ねられている。

すべては「感覚のグラデーション」

 この「感覚鈍麻」は「感覚過敏」と同時に併発するケースがあり、先述した感覚過敏研究所によるアンケートからもその例が伺える。

 「痛覚は鈍麻だけど触覚過敏で、ある種の服、シャワーなどは痛い」(28歳・女)、「骨折しようが痛みはわからないのに、人に身体を触られるとその感覚が何時間も残る」(18歳・女)、「そのときの体調や目的、誰と一緒かなどの環境により、まったくダメなときと大丈夫なときがあります」(7歳・女児 ※親による回答)。

 こうした回答を見ていると、一口に「感覚過敏」「感覚鈍麻」といってもその症状はじつに多様であり、また、環境や感情、体調等によって同じ人でも感じ方はその都度変わるのだということがわかるだろう。

 黒川医師は、次のようにメッセージを贈る。

「本来、感覚は一人ひとり違い、どんな感覚もその人の個性です。私たちは『感覚のとらえ方には幅がある』ということを意識し、特性のある人の声を聞いて、どんなことに困っているかを知ったり、どんな配慮があれば問題なく過ごせるかに想像をめぐらせる必要があるでしょう」

 どこまでが「正常」で、どこかが「異常」なのか――。その確たるラインは存在しない。つまり、誰もが抱えうる“感覚のグラデーション”なのである。たとえ、そのグラデーションが強くとも、決してネガティブなことではない。それは、私たちが落ち込んだ時に好物を食べても味がしないのと、あくまで地続きの“感覚”に過ぎないからだ。

 特性のあるなしにかかわらず、どんな人でも平等に暮らしていく権利がある。それが“当然”に配慮される社会になることを、願ってやまない。

(文・国実マヤコ)

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