以下、詳しく説明していきましょう。

 前近代社会では伝統的宗教やコミュニティなどが、自分の将来にわたる存在意義や人生の意味、つまりアイデンティティを保証していたのですが、近代社会では宗教やコミュニティが衰退することによって、アイデンティティが自動的には保証されない社会になったのです。

 少し難しく言うと、キルケゴールやサルトルなどの実存主義哲学者が言う「存在論的不安」「実存的不安」──「はたして自分はこれでいいのか」とか「自分は一人ぼっちじゃないのか」といった不安──があらわれて、それを自分で解消しなければいけない時代になったわけです。

 そうした存在論的不安というものを解消するために、近代社会では自分を承認してくれる相手──自分がここにいてもいいと思えるような存在──を自分で見つける必要がある社会が出現しました。

 自分の存在を承認してくれるというのは、「親密性」の根底にあるものです。つまり近代社会の人間関係は、前近代社会のように伝統的に与えられた人間関係ではなくて、自分で人間関係を選んだり選ばれたりするようになったということ。要するに近代社会では、自分が親密な相手として選ばれないリスクが出現してきたというわけです。

 ちなみに今日の日本には、創価学会や立正佼成会のような比較的新しくできた宗教的組織があって、そこにアイデンティティを見出している人たちが少なからずいますし、経済的な相互扶助が見られる教団もあります。たとえば、大きな教団だと奨学金などもあるし、「子どもに仕事がなくて困っている」と相談すると、就職の口利きをしてくれるということがあるのです。

 もちろん、そうした宗教的共同体で生きている人は伝統的宗教を含めても日本の人口の数パーセントに過ぎないでしょう。

 じつは社会が成長しているときは、宗教的共同体に限らず、自分が所属しているコミュニティの外に出て生きたほうが「得」です。コミュニティの内部にいて仲間と支援し合うよりも、それぞれが個別に豊かになっていくほうが経済的には得なのです。

 親族集団でも、親族が貧しいからといってサポートし続けていたら、いつまでたっても自分は豊かになれません。親族集団から離れて自分一人が豊かになろうとしたほうがやはり貯えは増えるでしょう。

 他の人が自分を助けてくれるということは、自分も他の人を助けなければいけないという表裏の関係にあるわけです。そして、成長社会のもとでは「自分の家族だけを心配していればいい」という社会のほうが、能力のある人にとっては得です。ゆえに近代社会では、宗教集団や親族集団が徐々に機能しなくなってきたわけです。近代社会の特徴である「個人化」とは、要するにそういうことなのです。

 高度経済成長期の日本は、地域社会や親族集団に頼らなくなった社会であり、かつ97%の人が結婚できる社会でした。その意味でも高度成長というのは、いわば「いいとこ取り」ができる特別な時期でした。そして、あえて乱暴に言えば、そこで落ちこぼれた人たちがあやしげな新興宗教に走り、やがてオウム真理教にまで行きついてしまったのでしょう。

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近代的結婚の成立要素とは