近代的結婚の成立要素

 本論に戻ります。近代化が結婚にもたらすものは、要するに「個人の選択」です。

 歴史社会学者のエドワード・ショーターが『近代家族の形成』で描いた19世紀のイギリスやフランスのように、配偶者選択が親の統制から離れて、徐々に個人の選択にゆだねられる傾向が強まりました。これはアメリカでも起きた現象ですが、アメリカは建国当初から自由を原則とする近代社会のような形態だったので、その変化はイギリスやフランスに比べてかなり急速でした。

「個人の選択」をもたらした大きな要因は、産業革命です。それによって親の資本を継承する社会でなくなったことが、結婚に個人化という決定的な変化をもたらしたというわけです。つまり、個人が配偶者を選んで近代家族をつくるようになる条件には、男性が親の家業を継ぐのではなく、男性がイエの外で働くことが可能になるという「仕事の個人化」が含まれているのです。

 家業を継ぐということは、つまり資本を継ぐということです。自営業の後継者には、親に逆らって結婚する自由が制限されるのはごく当然のことでしょう。もちろん前近代社会でも、勝手に好きな相手と結婚してイエの外に飛び出すということがありました。近代初期の小説などにそれらがモデルとして描かれているのはよく知られていることです。

 人間社会がすべてにおいて一挙に変わることはありません。しかしながら、産業革命によって急増した被雇用者の若者を中心に、結婚によって新しい家族を形成して親から独立して生活をするという傾向がどんどん強まっていきます。自分で配偶者を見つけなければ生涯独りで生きなければならず、生活にもそれなりの困難が生じるのですから当然の変化でした。

 これが近代的結婚の一つのかたちです。ですから、「男性が独力で生活費を稼ぐ社会にならなければ、近代的結婚は成り立たない」という言い方もできるわけです。

 こうして結婚が個人の選択になると、理念的には、若者は結婚によって新しい家族を形成して、親から独立して生活することを求められるようになります。それは今日では当たり前のことでしょうが、昔は当たり前ではありませんでした。

 先にも述べた通り、前近代社会では、夫婦は代々の家業の後継ぎと後継ぎの妻であることが求められたのです。それが近代社会になると、イエの外に出た核家族が「生活共同と親密性の単位」になるわけです。

「生活共同と親密性の単位」とは、夫婦が経済的に独立した単位であると同時に、存在論的不安解消のためのアイデンティティの源泉となることを意味しています。

 つまり近代社会では、親から独立して夫婦が生活を営むようになると同時に、そこで築く核家族が「生きがい」になるのです。家族をつくって親密な生活を送ること、そして、子どもをつくって育てることが人々の生きがいとなります。家族がいればさびしくないし、家族生活を営むことが生きがいになるというわけです。

 こうして結婚というものが、単に性的に好きな相手と「つがい」になるということだけではなくて、共同生活の相手と親密な相手を得ること、そういう家族を形成するための重要なイベントになるわけです。

 つまり近代社会における結婚は、夫婦という単に社会的な単位を形成するだけのものではなく、子どもの養育も含めた共同生活の相手であり、親密な相手、つまりは自分を承認してくれる相手を得るという人生の決定的なイベントになります。

 逆に言えば、近代社会において結婚しないということは、経済的な孤立プラス心理的な孤立という、深刻な二つの孤立を同時にもたらすことになるのです。

 前近代社会は、結婚しなくてもイエや宗教、コミュニティなどで、経済的な安定と心理的な保証を得る場がありました。独身であってもイエのきょうだいが面倒を見たり、お寺や修道院などに入ることもできました。しかし、近代社会は結婚しないと非常に困る社会になりました。つまり、結婚しない人が生きにくい社会が近代社会でもあったのです。

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