だが、闘いが始まったばかりの頃、佐々木さんは「傍観者でしかなかった」という。
「だって、アメリカに勝てるとは思えなかった。その頃の米兵はやりたい放題で、車でひき逃げしたって罪に問われない。警察も手を出すことのできない特権階級でした。それに比べて、昆布の人たちは何の権力も持たない素朴な農民ばかりでした。どうすればそんな特権階級相手に勝てるというのでしょう。土地を奪われる悲しみはあったけれど、何をしたって無駄かもしれないという、諦めも抱えていたんです」
それでも、あらゆる理不尽に翻弄され続けてきた農民たちは諦めなかった。偵察に来る役所の人間を、米軍人を追い返し、座り込みを続けた。
佐々木さんも徐々にその思いを理解するようになる。
「これはただ単に土地を守るというだけの運動じゃないんだ、人間の尊厳を懸けた闘いなんだって、座り込む人々の悲痛な表情を見ながら、そう考えるようになったんです」
決定的なできごとがあったのは66年12月30日の夜。約20人の米兵に闘争小屋が襲われた。指笛の合図とともに小屋に向かって一斉に石が投げ込まれ、支援団体の旗が軒並みへし折られた。やりたい放題の米兵に対し、農民たちは手も足も出なかった。
佐々木さんはその夜のことをはっきり覚えている。
「お月様が血の色に染まったんです」
そう振り返る。
「その日はお月様のきれいな夜だったんです。うっとりしながらそれを眺めていたときでした。そんなときに米兵が襲いかかってきました。笑いながら投石を続ける米兵たちを、私はこわくて、ただ見ているしかなかった。そしたらね、青白く光るお月様が、急に真っ赤に変わったんです。私の目が血走っていたのかもしれません。とにかく、真っ赤な血の色に染まったお月様が夜空にあった。泣きましたよ。怖くて、悲しくて、悔しくて」
そして、ベトナムではさらに残酷な戦争がおこなわれていることを考えた。
「この土地を、ベトナム戦争に加担させてはダメだと強く決意したんです」