歌詞を書いたのは佐々木さんだ。まだ10代の頃だった。

「怒りと悲しみが入り混じった頭のなかで、歌詞がぱっと浮かんだ。思いをみんなに伝えたかった」

 昆布土地闘争――当時、沖縄を揺るがせた闘いのなかで、この歌、「一坪たりとも渡すまい」は生まれたのだった。

 沖縄を統治していた米軍が、具志川村(現うるま市)昆布地区の土地約2万1千坪を接収すると通告したのは66年1月のことだった。

 村の多くの土地は、終戦直後からすでに軍用地として米軍に奪われていた。海岸には当時で7千トン級の船が横付け可能な米軍桟橋が設置され、航空用燃料タンクの施設などが並んでいた。

 そんな場所へ、米軍は強制収用をちらつかせながら土地の提供を求めてきたのである。ベトナム戦争が激化していた時期でもあった。米軍は同戦争に必要な軍需物資の集積所として使用するため、桟橋に近い昆布地区の土地を必要とした。

「サトウキビと芋が採れるだけの畑が広がっていました」と佐々木さんは述懐する。

 もともと決して豊かとは言えない人々が暮らす集落だった。戦前はほとんどの家庭から南洋(サイパンやパラオなど)への出稼ぎ者を出している。そうした出稼ぎ者の送金で、昆布地区は細々と開墾を続けてきたのだ。

 戦後、南洋各地から出稼ぎ者が命からがら集落に戻ってきた。戦争ですべてを失った人々は、それでも廃墟となった沖縄での再興を誓い合った。

 国に、戦争に、人々は翻弄された。それでもようやく、貧しくとも生活が落ち着いてきたその矢先に、米軍は荒地で育まれた小さな幸せさえ奪おうとした。土地を寄越こせ、さもなくば強制接収すると恫喝したのである。農民たちの闘いは66年の年明けから始まった。

 村民集会を開いて土地の明け渡し拒否を決議し、接収予定地での座り込みを続けた。

 接収に反対する地元の農民で結成した「昆布土地を守る会」の会長は、佐々木さんの父、佐久川長正さんだった。土地所有者の多くは戦争で夫を失った女性たちで、「ちゃーないがや(どうなるかね)、長正」と佐久川さんは村の皆から頼りにされていた。

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