佐々木さんが仲間とともに伊江島を訪ねたのは翌67年のことだった。

 同じように土地闘争を闘ってきた伊江島の人たちから話を聞くためだった。

 伊江島でも米軍の土地接収に抗議する熾烈な闘いが繰り返されてきた。それはまさに、「銃剣とブルドーザー」による土地の強奪だった。伊江島の闘いを非暴力で貫き、島民たちの信望を集めたのが平和運動家の阿波根昌鴻さん(故人)だった。

 島を訪ねた佐々木さんたちに、阿波根さんは「おそれるな」と励まし、非暴力抵抗運動を貫くことがいかに大事なのかを伝えた。

「米兵も同じ人間だと阿波根さんは言うのです。だからこそ、徹底して非暴力で、しかし諦めない闘いをするのだと伝えてくれました。優しくて強い人でした」

 座り込む。ただひたすら座り込む。そして絶対に諦めない。そんな昆布の闘いは、阿波根さんの教えが根底にある。

 そしてもうひとつ。佐々木さんが衝撃を受けたのは、伊江島の闘いのなかで生まれた曲「陳情口説」だった。

〈わが土地ゆ 取て軍用地 うち使てぃ(わが土地を奪って軍用地に使ってます)〉

の歌詞で知られる「陳情口説」を島の人が三線で披露してくれた際に、「心がザワザワした」のだという。

 伊江島から戻る船のなかで決意した。

「昆布の闘いを、同じように歌にしなければならないと思ったんです」

 帰宅して、ギター片手に曲もつくった。そしてできたのが「一坪たりとも渡すまい」だった。歌は昆布から沖縄各地へ、そして全国の闘いの場所で、歌われるようになった。

 歌の2番では〈われらは もはや だまされぬ〉と昆布の人々の決意を示し、最後の3番で米軍のベトナム爆撃を非難した。

 すべてが昆布につながり、そして世界に広がる、悲しい反戦歌なのである。

 昆布の人々は、座り込んで歌った。スクラムを組んで歌った。米軍から投石を受けても、何者かによって闘争小屋が燃やされても、それでも諦めなかった。奪われないために、守るために、そして社会を変えるために、人々は座り続け、歌い続けた。

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